2009年11月3日火曜日

asahi shohyo 書評

哲学者たちの死に方 [著]サイモン・クリッチリー

[掲載]2009年11月1日

  • [評者]高村薫(作家)

■他者の死が私に思索を要請する

  帯に、「タレスからデリダまで、古今東西190余名の哲学者たちの臨終図鑑」とある。この間、約二千六百年。人間にとって永遠の難問である死に向き合い、 精神の営み一つで死を克服せんとしてきた彼ら賢人たちも、最後は死んで黙した。その死に方は穏やかなものから、思わず笑ってしまうようなものまで、実にさ まざまである。とはいえ読者は、著者自身が哲学者であることによくよく注意しなければならない。哲学者はけっして単純なことはしない。アフォリズムに満ち た軽やかな語り口は、明らかに私たちを唆(そそのか)している。しかし、何に向けて?

 古来、哲学をすることは死を学ぶことだった。ギリシャ時代には死は霊魂の消滅であるのか否かが問われ、キリスト教世界では死は 魂の救済になった。自然科学が神を凌駕(りょうが)する時代になると、死は不死も永遠もはぎ取られた物理的現実となり、生きて思考する人間の領域の外に置 かれることになった。しかし、それで死の問題が片づいたわけではない。自然法則としての死と、それに人間がどう向き合うかは依然別の話だからである。死と いう絶対の現実と、人間の自律的な経験や精神の自由をいかに和解させるか。生にとって死は、いまも難題なのである。

 さて、それではなぜ死に方の列挙なのか。メルロ・ポンティが言ったように「赤裸々な死を知ることによって、赤裸々な生を知る」 からか? 仮にそうだとすれば、死の考察はなぜ、生の考察につながるのだろうか。一つの精神を途絶させる物質的な死は、どこで、どう生へとつながるのだろ うか。

 答えは、「私」の生に他者の死が入り込む、である。死はけっして自ら経験できない以上、つねに他者の死であり、私の生に入り込 んで、消えない傷跡をつけてゆく。言い換えれば、他者の死が私に思索を要請するのであり、私は自分の生を通して他者の死を考察し、その考察がまた私の生を つくってゆくのである。しかし、どのように? 著者は答えない。代わりに死に方を並べてみせ、まさに哲学することへと読者を唆している。

    ◇

 杉本隆久ほか訳/Simon Critchley 60年英国生まれ。米国で活躍する哲学者。

表紙画像

哲学者たちの死に方

著者:サイモン・クリッチリー

出版社:河出書房新社   価格:¥ 3,150

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