2008年3月1日土曜日

asahi shohyo 書評 主婦之友

「主婦の友」91年で幕 時代投影「あこがれ」終わる

2008年02月29日

 雑誌「主婦の友」が5月発売の号で休刊する。創刊は1917(大正6)年。主婦という言葉が誕生してまもない時期に生まれ、一時は160万の部数を誇った。91年の幕を下ろす雑誌に、どんな歴史があったのか。

図「主婦の友」表紙でたどる91年

 休刊を考えたのは「これで2度目」と元編集長の村田耕一・主婦の友社事業部長(54)は言う。1度目 は93年。だが休刊はせず、記事を生活情報に特化し、表紙を女優の写真から「スーパーのチラシ」のイメージにリニューアルした。「4大婦人雑誌」といわれ た「主婦と生活」は同年に休刊、「婦人生活」「婦人倶楽部」はすでに80年代に消えていた。

 95年には60万部まで持ち直すが、「30歳前後の女性に主婦という言葉はもう届かない」(村田さん)。ここ数年は5万〜7万部まで低迷していた。

 「社名でもある雑誌の休刊はイメージダウンにつながるのではないか」という意見もあったが、最後は「ここまで試行錯誤したのだから、もうリセットするしかない」という判断に至った。「主婦の友」の雑誌名は消えるが、社名は変えない。

■中流の下狙う

 「主婦の友」(当時は「主婦之友」)を創刊したのは石川武美(たけよし)(1887〜1961)。「婦人世界」「婦人画報」「婦人之友」「婦人公論」の全盛期で、「婦人」には家事は女中に任せ観劇や三越に出かけるハイクラスのイメージがあった。

 対して「主婦の友」がねらったのは「中流の下の主婦」。明治の中ごろに誕生、大正にかけて一般に広がった「主婦」という言葉は、「オカミサン」の ニュアンスに近く、「教養の低さを示す、ぬかみそくさい言葉と思われていた」(同社80年史)。進取の気性に富む石川はあえてその言葉を誌名に選ぶ。

 創刊号の目次に「何といって良人(おっと)を呼ぶか」「新婚の娘に送った母の手紙」「安価で建てた便利な家」「共稼ぎで月収三十三円の新家庭」などのタイトルが並ぶ。今の女性週刊誌やワイドショーに通じる切り口だ。

 大正期から誌面を通じておしめカバーなどの通販も始め、浴衣や洗剤は注文が殺到した。家計簿や、ワイシャツの実物大型紙を付録につけたのも他に先 駆けた試み。毎月付いた別冊付録、大判化など婦人雑誌の定番になっていく。創刊3年で一番の部数を誇る婦人雑誌になった。誌面を飾る執筆者も一流で、谷崎 潤一郎らが寄稿している。

■戦時にピーク

 時代の変化は、雑誌に映し出されてゆく。

 大正期は和服の美人画の表紙で、時々洋装の号が交ざる。肺病の療養記事がよく読まれ、女性の参政権問題も載った。

 戦争は表紙を変えた。まず、笑顔が消える。もんぺ服やはちまき姿で、工場で働き、バケツで消火作業をしている。

 特集も防空壕(ごう)の作り方や戦線ルポ(40年)の連載に。それでも合間に代用食品の使い方実験集(39年)、古なべを利用した非常時ずきんの作り方(41年)といった記事があるのは「主婦の友」らしい。43年には163万部のピークに達した。

 45年の6月号から表紙はモノクロになり、7月号はわずか32ページのみ。東京の印刷所が被災して、静岡の新聞社まで原稿を運んだという。

 戦後は一転、明るさが少しずつ増してくる。60年代には、「マイカーの夢をかなえられる」と誌面も高度経済成長を迎えた。表紙が女優のカラー写真になって、吉永小百合、松坂慶子、後藤久美子と女優の顔が時代を表してきた。

■家事の教科書

 テレビで人気の料理研究家、城戸崎愛さん(82)は60年ごろ「主婦の友」でデビューした。「シェフの本格的な話と一緒に、家庭でもこうしたら近づけるというアイデアがたくさんあった。あくまでも主婦の目線で書かれていて、主婦の教科書だった」と話す。

 服飾デザイナーの森南海子さん(74)も、古い洋服を新しく着るには、などの視点でリフォームの記事を書いた。型紙作りが素人には難しいと思われ ていたとき、「主婦の友」は実物大型紙をつけた。「これなら私にもできる、とみんな思ったのではないでしょうか」。今はもう、洋裁を習う必要はない。家事 の教科書はいらなくなった。

 「主婦の友」休刊に、京都大教授(家族史)の小山静子さん(54)は「『主婦の時代』が終わった」と感じる。

 創刊当時、農作業や自営業で働きながら家事もこなす多くの女性にとって、家事や育児に専念できる主婦は「幸せのシンボル」だった。いつの時代も雑誌に求められるのは、現実よりちょっと上の生活。あこがれがなければ読者は離れる。

 「結婚して主婦になることだけが女性の幸せではなくなった。女性の生き方を主婦という言葉だけで、くくることはできなくなったのです」




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