2010年05月31日
『人間の将来とバイオエシックス』ユルゲン・ハ−バマス(法政大学出版局)
「ブレーブ・ニューワールド時代の哲学」
クローン人間だけでなく、両親が生まれてくる子供のための善を祈って遺伝子操作を行えるようになる時代がもう間近に迫っている。こうした「ブレーブ・ ニューワールド」(ハクスレー)を前にして、ぼくたちはこうした新しい技術にどのような姿勢を取ればよいのかという問いは、避けがたいものである。ハーバーマスがこの問題に答えようとする際に前提とするのは、哲学はもはや「どのように生きるべきか」という問いに答えることは断念しているということ である。キルケゴールは「自分自身の人生が成功なのか失敗なのかに関する根本的な倫理的問いに、〈自分自身でありうること〉というポスト形而上学的な概念 で答えた最初の人であった」(p.15)とハーバーマスは指摘する。
ということは、価値が多元化した現代の社会にあって、各人が自分自身でありうる生き方を求めればよいのであり、哲学はそのどれかを選ぶことも、優 先することもないということである。「純粋に倫理的な問いに関していかなる優先準位も禁じる」(同)のである。ただしそれは道徳的な問いを放棄するという ことではない。「社会的な次元では自身の行動に責任をもつことが、そして他者に対する約束や責任に応じることが可能となる」(p.16)ことは依然として 必要なのであり、そのような責任を取る道徳的な主体を構築する可能性を最大限で維持することが、哲学の道徳的な課題だということになる。
この視点から考えるときに、遺伝子操作にはいくつかの重要な難点がある。たとえば、両親が子供の「ため」を思って、特別に知能に優れた遺伝子を与 えたり、美貌で優れた体格の遺伝子を与えたりするとしてみよう。子供は両親の嗜好を共有して、自分の知能が高く、美貌であることに感謝するかもしれない。 あるいは遺伝子を操作しない場合にも、知能や美貌が優れている子供と優れていない子供の違いがあることを考えて、自分の与えられたものを一つの運命や所与 として甘受するかもしれない。
そうであれば問題はないかもしれない。しかしそうでない場合も考えられる。子供は自分の生き方として、美貌のために注目されることがない生活を望 むかもしれないし、知能の高さを発揮したりするのではなく、ぐうたらな生活を送ることに最大の幸福を見いだすかもれしない。そのような可能性が残されてい る以上、そして「自分らしい生き方」というものは、すべての個人において異なる可能性があり、その優越を決めることはできない以上、こうした選択もまた優 劣のないものとして認める必要があるのである。
遺伝子操作は、このような個人の選択の余地に介入することになる。それは子供という「他の人格が自分自身に対してもつ自発的な関係および倫理的自 由の身体的基盤にまで介入するものとなる」(p.29)と言わざるをえないのである。この両親の決定は、子供にとっては「独特のパターナリズ ム」(p.107)としてしか感受されないだろう。子供は「自分自身の歪曲されない未来を奪われて」(p.106)いるとしか感じないだろう。
このようにして子供の未来が歪められるだけではなく、この両親の選択には、対話の可能性を否定するという問題が含まれる。子供というものは、幼い ときには家庭で両親のパターナリズム的な配慮の恩恵をうけるものである。両親の配慮とはそうした性質のものだからだ。しかし子供はその配慮をやがて迷惑な ものと感じるようになる。そして社会のさまざまな他者とのコミュニケーションを経験するうちに、両親の配慮の恵みと迷惑さから脱出してゆく。それが社会的 な存在になるということだ。
しかし遺伝子操作が行われていると、「パターナリズム的な目論見が、対抗しようのないプログラムの中に実現しており、コミュニケーション的な媒介 された社会化の実践のかたちで現れることがないがゆえに、帰結は不可逆的である」(p.108)。そこでは両親が子供に語りかけた「二人称」の言葉は存在 していても、子供が両親に語りかける「二人称」の言葉は奪われているのである。両親の二人称の言葉は、実は自己の願望を子供に押しつける「一人称」の言葉 にすぎない。
ハーバーマスは、「人間同士の関係のありかたは現存在的に可逆的である」(p.107)べきだと考える。遺伝子操作の優生学は、「ある人格が他の 人格のゲノムの望ましい構成について後戻りの不可能な決定を下すことによって、二人のあいだに成立する関係においては、自立的に行為し、判断する人格相互 の道徳的自己了解のこれまで自明であった前提が自明ではなくなる」(同)のである。
ハーバーマスのこの議論は、人々の価値の多元性を前提としても、なお道徳的に不可欠な要件が存在することを、コミュニケーション的な理性の議論で 巧みに展開するものである。大きな難問を抱えるバイオエシックスの哲学的な議論として、大きな貢献をしていると言うべきだろう。
ハーバーマスの討議倫理の議論にはこれまでさまざまな批判が行われてきたが、この遺伝子操作の問題に関しては、ディスクルスの議論が巧みに働いて いると感じられた。討議の現場に対話の相手が存在しない状態で、その架空の相手との対話の可能性を探ることが試みられているために、討議倫理に潜んでいた さまざまな問題点が顕在化しないからである。
【書誌情報】
■人間の将来とバイオエシックス
■ユルゲン・ハ−バマス/著
■三島憲一訳
■法政大学出版局
■2004/11
■135, / 20cm / B6判
■ISBN 9784588008023
■定価 1890円
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