2010年6月11日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

scripta  紀伊國屋書店出版部の本の書評ブログ

Verba volant,scripta manent.
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「scripta」は紀伊國屋書店出版部が季刊で発行する無料広報誌です(3・6・9・12月中旬発行)。
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2010年06月08日

『自分の体で実験したい——命がけの科学者列伝』L.デンディ& M.ボーリング著/梶山あゆみ訳(紀伊國屋書店)

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「寄生虫学者は「変人」か」

                     藤田紘一郎(感染免疫学者)

 『自分の体で実験したい』は、危険も顧みず、科学のために自分の体で実験した科学者や医学者たちのノンフィクションである。本書の「おわりに」と 巻末の年表では、私自身のサナダ虫の実験についても言及している。

 私は一九九六年以来、サナダ虫を二〇年以上お腹に飼っている。初代の「サトミ」ちゃん、二代目「ヒロミ」ちゃんと飼い続けて、最後の「マサミ」 ちゃんまで、計五代のサナダ虫を飼い続けた。五代目の「マサミ」ちゃんは残念ながら、昨年の冬死んでしまって、今、私のお腹のなかにはサナダ虫が棲んでい ない。そして、私が飼い続けたサナダ虫、正式の名前は「日本海裂頭条虫」というが、このサナダ虫は日本ではほとんど見られなくなっている。

 サナダ虫の寿命は約三年である。日本語で「虫がわく」という言葉があるが、普通では寄生虫が人体内で増えることはない。例えばサナダ虫の親虫は、 人の腸のなかに一日約二〇〇万個の卵を産む。しかし、その卵を飲んでもサナダ虫の子供は一匹も生まれてこない。卵が川に流れ込まないと、サナダ虫の感染サ イクルがまわらないからだ。

 私の大学の前を神田川が流れている。私が神田川で排便すると、はじめて私の糞便のなかの卵が孵化して、その幼虫が水中を遊泳してミジンコのなかに 侵入する。ミジンコの体内に侵入しないと、サナダ虫の幼虫は発育できないのだ。しかし、私が神田川で排便してもサナダ虫の感染はまわらない。神田川にはサ ケが一匹も遡上してこないからだ。サナダ虫の感染サイクルを完成させるためには、私がわざわざ北海道に行って、石狩川で排便しなければならない。なぜな ら、石狩川には、サナダ虫の感染サイクルに必要な「ミジンコ」と「サケ」がいるからだ。

 日本人はとっくの昔から「川で排便すること」をやめてしまった。したがって、日本国内で、日本海裂頭条虫の感染サイクルはまわることはない。ま だ、中国北部や極東ロシアではかろうじてサナダ虫の感染が続いているが、それもいずれは絶滅状態になるだろう。

 サナダ虫の話が長くなったが、この話を知っている日本人は滅多にいない。ほとんどの日本人は、医者でさえも、「寄生虫は卵を飲んだら感染する」 「体内に入った寄生虫は数を増やす」と思っている。そんなことはないのだ。

 だいたい寄生虫学者は「変人」とよばれる人が多い。寄生虫学者の「宿命」かも知れない。なぜなら、寄生虫の研究では動物実験ができないからだ。例 えば、私が飼っていたサナダ虫は人体のなかでしか親虫になれない。ネズミに感染させても発育しないのだ。例え、感染できる寄生虫があったとしても、人とネ ズミとでは感染状況が全く異なるのである。

 例えば、イヌやネコの寄生虫に「顎口虫(がっこうちゅう)」というのがある。イヌやネコに感染すると、胃のなかで親虫になって、静かにしている。 しかし、人体に侵入すると、顎口虫は親虫になれず、幼虫のまま人体を走り廻るので、まるで「コブ」が移動するように見える。眼が好きで、そこに侵入する と、失明を起こしてしまう。したがって、顎口虫の人体での感染状況を知るためには、「人体実験」以外方法はないのである。

 熊本大学の故岡村一郎名誉教授は、わざわざ雷魚から顎口虫の幼虫を取り出し、自らその幼虫を飲み込んで、人体での感染状況を克明に観察した。この 時、顎口虫の幼虫が岡村教授の眼球に侵入し、もう少しで失明するところだった。文字通り、「命がけ」の実験だったのである。

 本書は、こうした「変人たち」の偉人伝である。全部で一〇章からなり、古くは一七七〇年代から新しくは一九八九年まで、時代も国もばらばらで、共 通するのは、変人たちの「自分の体で実験した」事実である。本書は、実験者の心と行動に光を当てることで、大変ユニークな読み物となっている。内容は、 「一〇〇度を越す高温部屋でどれだけ耐えられるか」「パンや肉を袋や木の筒に入れて丸呑みする消化実験」「笑いガスを吸った歯医者たち」「死の病を媒介す る蚊が自分の腕を刺すのを待つ男」「夜中、ラジウムが緑青色を発するのを見つめる夫妻」「炭坑や海中で悪い空気を吸い続ける親子」「心臓にはじめてカテー テルを入れた男」「時速一〇〇〇キロのマシーンを急停止させる衝撃に挑む男」「洞窟で四个月を過ごした女性」など、ノーベル賞に値する実験もあれば、単に 好奇心を満足させただけの実験もある。見事にうまくいった実験もあるが、失敗をとおして医学の役に立った悲しい事例もある。キュリー夫妻の章は別にして、 たぶんはじめて聞く話が多いはずだ。自己実験は一歩間違えば命にかかわる。このような危険を冒してまでする動機は、何であろうか。科学界は、自己実験に対 して極めて批判的である。そんな大きなリスクを引き受けてなぜ自己実験を続けたか。このあたりの科学者の心理が見事に描き出されており、梶山あゆみさんの 訳文もたいへん読みやすい。


*「scripta」第9号(2008年9月)より転載


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