2010年6月3日木曜日

asahi shohyo 書評

「悪」と戦う [著]高橋源一郎

[掲 載]2010年5月30日

  • [評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■「本は生物」、実践として表現

 私たちの多くが生きているのは、自由選択とそれによる幸福追求の社会だ。古代のように規定された「善」という概念は成立しがたい。 ならば、その対語の「悪」とはなにか?——刊行前には、作者自ら毎夜ツイッターに登場して、本作の創作過程とモデルを明かす書き込みをし、読者と直接対話 して反響を呼んだ、渾身(こんしん)の作だ。

 序章は、末っ子の言葉の発達をめぐるお話である。後に続く本編と無縁に見えるかもしれない。しかしこれは「悪」という無形のも のを、それと戦う過程を、断固言語によって捉(とら)えていくぞ、という小説家の声明と私には思えた。

 人が目をそむけるような外見の「ミアちゃん」。この悪の手先に拉致された弟を救いにいく兄の戦いの物語が、並行世界の構造をと りいれて展開する。世界の破滅を食い止めるため、兄は地獄巡りのごとく恐ろしい目にあい、精神を試され、この世の成り立ちを探ることになる。凄(すさ)ま じい苛(いじ)め、制裁のための残虐行為、自殺、殺人……。パラレルワールド的な造りは、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』などに最近しばしば見られる が、本書は近年の色々な話題作を想起させる。壮絶な苛めと攻撃誘発性(バルネラビリティー)の理論では川上未映子『ヘヴン』、善悪の「秤(はかり)」の均 衡という概念は村上春樹『1Q84』、「象徴的な死」は阿部和重『ニッポニアニッポン』、家族モデル小説の虚実という問題では柳美里『ファミリー・シーク レット』……などなど、ニッポンの現代小説の反射板という側面も見てとれる。

 『「悪」と戦う』の「と」は「共に」という意味だと思った、という読者からの反応がウェブ上であった。「悪」と共になにと戦う のだろう? 実はこの思わぬ「勘違い」にこそ、本作の深い核心が表現された気がする。悪=敵ではない。本書はこうしたリアルタイムの声をもとりこんで膨ら んでいく。一種、感応器としての本であり、本が実は一つの形にとどまらぬ生物(いきもの・ナマモノ)であることを、自身の在り方をもって示してもいるので ある。

    ◇

 たかはし・げんいちろう 51年生まれ。作家。『日本文学盛衰史』で伊藤整賞。

表紙画像

「悪」と戦う

著者:高橋 源一郎

出版社:河出書房 新社   価格:¥ 1,680

表紙画像

クォンタム・ファミリーズ

著者:東 浩紀

出版社: 新潮社   価格:¥ 2,100

表紙画像

ヘヴン

著者:川上 未映子

出版社:講談社   価格:¥ 1,470

表紙画像

1Q84 BOOK 1

著者:村上 春樹

出版社: 新潮社   価格:¥ 1,890

表紙画像

ニッポニアニッポン

著者:阿部 和重

出版社:新潮 社   価格:¥ 1,260

表紙画像

ファミリー・シークレット

著者:柳 美里

出版社: 講談社   価格:¥ 1,680

表紙画像

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

著者:高橋 源一郎

出 版社:講談社   価格:¥ 1,000

0 件のコメント: