2010年6月16日水曜日

asahi shohyo 書評

異邦の香り—ネルヴァル『東方紀行』論 野崎歓さん

[掲 載]2010年6月6日

  • [文]佐久間文子 [写真]郭允

写真:野崎歓さん(51)拡大野崎歓さん(51)

■ ふらふらと異文化に分け入る

 この本に導かれてネルヴァル(1808〜55)の「東方紀行」をひもと いた。42年暮れから翌年にかけて、パリからカイロ、シリア、コンスタンチノープルへとオリエントをめぐった経験などから書かれた旅行記は、好奇心と驚 き、脱線と道草、さらには夢と非現実の不思議な魅力にみちている。

 「音楽が聞こえるというのかな。誘われる文体です。融通無碍(ゆうずうむげ)でユーモアがあり、いちどその世界に入ったらなか なか出てこられない」。そういう野崎さん自身、卒論で取り上げて以来のテーマで、98年の「ネルヴァル全集」でも「東方紀行」を共訳している。

 プルーストやアンドレ・ブルトン、日本では中村真一郎など肩入れする作家は多い。面白いのは、西洋の作家のオリエンタリズム (東方趣味)に厳しい批評家サイードが、ネルヴァルには例外的に甘いこと。同時代の類型的思考から彼が逃れているとしたらなぜか。「そこに21世紀のネル ヴァル像を結ぶヒントがある」と野崎さんは考えた。

 「東方紀行」の旅人は理想の女性を探し求めている設定だ。初出が雑誌連載で、読者を意識したせいもあったのだろうか。「なのに いつも相手を取り逃がす。取り逃がしてはその勢いで先に進む」。ふらふらとベール姿の美女のあとをつけたり、周囲の勧めで買った女奴隷の機嫌を損ねておた おたしたり。

 「旅した先は、さまざまな文化や宗教の葛藤(かっとう)がある地域です。白人が植民地を教化し発展させていかなければ、という のが当時の意識としたら、ネルヴァルの歩き方は全然違う。ありえたかもしれない、もうひとつの西洋と非西洋の出会いを、彼は風来坊的な感覚で実現してし まっているんです」

 シュールレアリスムの先駆、神秘主義者、精神を病みパリの路地で死んだ作家。文学史のそうした記述だけにはおさまらない、不定 型のネルヴァルがここにいる。

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