2010年6月1日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年05月29日

『コペルニクス—地球を動かし天空の美しい秩序へ』 ギンガリッチ&マクラクラン (大月書店)

コペルニクス—地球を動かし天空の美しい秩序へ →bookwebで購入

 オックスフォード大学出版局から出ている「科学の肖像」という科学者の伝記シリーズの一冊である。共著者のオーウェン・ギンガリッチはコペルニク スの権威であり、書誌学の怪物的達成というべき『誰 も読まなかったコペルニクス』の著者でもある。

 邦訳にして150ページの小著であるし図版が多数はいっているので、あっという間に読みきってしまった。

 コペルニクスの伝記と学説については『回 転論』の二つの邦訳の解説でもかなりの紙幅がさかれているし、コペルニクスの唯一の弟子、レティクスの生涯を描いた『コ ペルニクスの仕掛人』でもふれられているが、本書は物語としてまとまっている上に、コペルニクスの学説の幾何学的構造をわかりやすく説明してい る。

 本書は前年達成されたコロンブスの航海のニュースに湧く1493年のヤギェーウォ大学の情景からはじまる。当時20歳だったニコラウス・コペルニ クスは兄のアンドレアスとともに三年次に在籍していた。生まれる20年前にはグーテンベルクが活版印刷をはじめ、44歳の時にはルターが宗教改革の烽火を あげている。コペルニクスはヨーロッパが大きく変貌する時代に生きたのである。

 コペルニクスはワルシャワとグダニスクの中間にあるトルニという街に生まれた。父はワルシャワから移ってきた成功した商人。母はトルニの大商人の 娘で、祖父は町の有力者だった。

 コペルニクスは10歳の時、父と死別するが、教会のピラミッドの中で出世していた母方の伯父、ルカス・ヴァッツェンローデが学資を出してくれて大 学に進むことができた。

 コペルニクスが16歳の時、ルカス・ヴァッツェンローデはヴァルミアの司教に就任する。司教は教会領の行政長官を兼ねており大変な権力者だった。 ヴァッツェンローデ司教は大学を終えたばかりのコペルニクスをヴァルミア聖堂参事会の役員に押しこんだ。定収入のできたコペルニクスは翌年から四年間、ボ ローニャ大学に留学し、教会法を学ぶことになる。伯父はコペルニクスに自分と同じように教会で頭角をあらわして欲しいと願ったのである。

 『コ ペルニクスの仕掛人』によると、ルカスは最初は教育畑で出世しようとしたが、学校長の娘に私生児を産ませたために教育界にいられなくなり教会に鞍 替えしたという。司教になった後、私生児に町長の地位にあたえているというが、私生児スキャンダルのために聖職者に転じるというのも面白い。

 コペルニクスは権力よりも学問に関心があったようで、四年の学業を終えた後、医術の勉強をするという条件でさらに二年間パドヴァ大学に遊学する。 当時の医術は占星術が不可欠だったから占星術も学んだはずである。

 30歳になったコペルニクスは帰国し、ヴァルミアで律宗司祭となって教会の土地と財産を管理する仕事につくが、すぐに伯父のヴァッツェンローデ司 教の補佐役兼侍医に抜擢され、司教館で寝食をともにすることになる。伯父は優秀なコペルニクスを自分の後継者にしようとしていたのだ。

 コペルニクスはこの時期に地動説=太陽中心説の着想をえたらしい。というのは彼は37歳の時に司教館を出てヴァルミアにもどり、3年後に天体観測 用の塔を建てているからだ。伯父のもとをはなれるとは教会での出世の道を放棄したことを意味するだろう。

 この頃、コペルニクスは太陽中心説をまとめた小冊子を少部数筆写してクラクフの知人に送った。今日「コメンタリオルス」として知られる覚書である (高橋憲一訳『コペルニクス・天球回転論』に併録)。

 コペルニクスは職務のかたわら、若い日のひらめきを実証すべく天体観測をこつこつつづけ、『回転論』となる原稿を書きたしていったが、任地は学問 の中心から離れた僻地だったので彼の革命的な学説に興味をもつ者は皆無だった。彼は近在で名医として知られるようになったが、天文学者だと知る者は少数の 友人以外いなかったろう。

 だが、学問の世界は彼を忘れていなかった。太陽中心説は枢機卿や司教という高位の人の興味を惹き問い合わせの手紙があったが、コペルニクスは『回 転論』の加筆をつづけるのみで、発表にはいたらなかった。

 65歳の時に転機が訪れる。レティクスという若い数学者がコペルニクスの新説を知ってわざわざ教えを請いにきたのである。レティクスはコペルニク スのもとに2年間滞在して草稿の仕上げを手伝い、太陽中心説の概要を「ナラティオ・プリマ」という小冊子にまとめて学会に発表した。コペルニクスの新説は にわかに注目を集め『回転論』の出版が決まるが、レティクスがライプツィヒ大学に移ったために作業はルター派の牧師であるオジアンダーに託された。印刷の 終わった『回転論』が届けられたのはコペルニクスの死の直前のことだった。

 なお、『回転論』出版n尽力したレティクスについては『コ ペルニクスの仕掛人』に詳しい。

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