2010年06月15日
『オランダ風説書−「鎖国」日本に語られた「世界」』松方冬子(中公新書)
著者、松方冬子の博士論文をもとにした『オランダ風説書と近世日本』(東京大学出版会、2007年)を読もう読もうと思いながら、延び延びになっている うちに、この新書が出た。
本書は、1960年代まで支配的であった「江戸時代の日本は国を鎖していた」という、いわゆる「鎖国論」を訂正されるかたちで進んだ近世日本の対外関係 史の研究成果のうえにある。「鎖国」と考えられたのは、外の世界としてヨーロッパとアメリカだけを想定していたためであり、その後、東アジアに力点を置い た対外関係史研究が進むと、「江戸時代の日本は「対馬口(つしまぐち)」で李氏朝鮮(イシチヨソン)と、「薩摩口(さつまぐち)」で琉球(りゆうきゆう) と、「松前口(まつまえぐち)」でアイヌと、「長崎口」でオランダ人や唐人(とうじん)(中国人が主体だが東南アジアの人々も含む)とつながっていた」こ とが明らかになってきた。
これらの「「四つの口」がどちらかというと中国と「つながる」ための装置だったのに対し、「鎖国」政策はヨーロッパ勢力から身を「守る」ためのものであ り「仮想敵」をもっていた」のである。しかし、「一七世紀的なヨーロッパとは違う一九世紀のヨーロッパのあり方を、幕府は認識し」、オランダ風説書の役割 も、違うものになっていった。著者が「西洋近代」と呼ぶ「一八世紀後半から一九世紀前半にかけて、恐れの対象はヨーロッパ諸国が起こしつつあるよくわから ない何か」に立ち向かい、自分たちの体制を守るための情報を求めるようになった。
「風説書は、オランダについての情報ではなく、オランダ人が持ってきた情報である。内容の主な部分は、ヨーロッパ、西アジア、現在のインド、東南アジア などだけでなく、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸に関する話も含まれていた」。「戦争や王位の継承だけでなく、盗賊の活動や自然災害などありとあらゆる種 類の時事的な話題が盛り込まれた。なかでも重要視されたのは、ヨーロッパの国から使者が来るだろうとか、宣教師が日本に潜入しようとしているとかいう噂、 つまり直接日本に関係する情報である」。
本書で著者は、「オランダ語史料を用い、オランダ側の視点に立ってみることで、今までとは違う見方をしてみよう」としている。「現場密着型である」手法 をとったのは、つぎのような理由による。「オランダ人にとって、風説書が作成されていく過程はつねに新鮮であり、時に苛立(いらだ)ちのもとであった。そ のため、情報の受け渡しの現場に関しては、日本人よりもオランダ人のほうがよき観察者であり、記録者だったのである。そもそも、二者間で伝達された情報の 研究に、受け手側の史料のみを用いたのでは不十分だろう」。
本書は、ヨーロッパ中心史観の「鎖国論」から脱し、東アジアとの関係を重視した近年の日本の対外関係史研究のうえに、さらにナショナル・ヒストリーから 脱して、日本史を相対化しようとしたものである。その結論は、「オランダ風説書は日本史にかくかくしかじかの重要な影響を及ぼした」というものではなかっ た。著者は、正直に「研究すればするほど、風説書の限界が見えてくるのも事実である。過大評価をする気にはなれない。あえて結論風に言うなら、風説書は、 江戸時代の日本が聞いたオランダ人のささやきでしかなかった」という。
このことは、著者がヨーロッパ中心史観からも、ナショナル・ヒストリーからも脱して、世界史のなかでオランダ風説書を読み解いたからにほかならない。し かし、世界史のなかで、理解することはそれほどたやすいことではない。オランダを取り巻くヨーロッパの情勢、バタフィアを取り巻く今日の東南アジアの情勢 など、正確な知識が必要である。たとえば、本書にある「一八二四年にイギリスとオランダとの間でアジアにおける両国の勢力範囲に線引きがなされた」という のは事実だが、「今日のインドネシアのみをオランダ領東インドとして確保した」のは、その数十年後である。日本にとって一九世紀前半と後半ではずいぶん状 況が違うように、東南アジアでも前半と後半ではずいぶん違った。同時代の世界のなかで、違う国・地域を理解するための世界史認識を、われわれはまだ充分に もっていない。
本書は、1960年代まで支配的であった「江戸時代の日本は国を鎖していた」という、いわゆる「鎖国論」を訂正されるかたちで進んだ近世日本の対外関係 史の研究成果のうえにある。「鎖国」と考えられたのは、外の世界としてヨーロッパとアメリカだけを想定していたためであり、その後、東アジアに力点を置い た対外関係史研究が進むと、「江戸時代の日本は「対馬口(つしまぐち)」で李氏朝鮮(イシチヨソン)と、「薩摩口(さつまぐち)」で琉球(りゆうきゆう) と、「松前口(まつまえぐち)」でアイヌと、「長崎口」でオランダ人や唐人(とうじん)(中国人が主体だが東南アジアの人々も含む)とつながっていた」こ とが明らかになってきた。
これらの「「四つの口」がどちらかというと中国と「つながる」ための装置だったのに対し、「鎖国」政策はヨーロッパ勢力から身を「守る」ためのものであ り「仮想敵」をもっていた」のである。しかし、「一七世紀的なヨーロッパとは違う一九世紀のヨーロッパのあり方を、幕府は認識し」、オランダ風説書の役割 も、違うものになっていった。著者が「西洋近代」と呼ぶ「一八世紀後半から一九世紀前半にかけて、恐れの対象はヨーロッパ諸国が起こしつつあるよくわから ない何か」に立ち向かい、自分たちの体制を守るための情報を求めるようになった。
「風説書は、オランダについての情報ではなく、オランダ人が持ってきた情報である。内容の主な部分は、ヨーロッパ、西アジア、現在のインド、東南アジア などだけでなく、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸に関する話も含まれていた」。「戦争や王位の継承だけでなく、盗賊の活動や自然災害などありとあらゆる種 類の時事的な話題が盛り込まれた。なかでも重要視されたのは、ヨーロッパの国から使者が来るだろうとか、宣教師が日本に潜入しようとしているとかいう噂、 つまり直接日本に関係する情報である」。
本書で著者は、「オランダ語史料を用い、オランダ側の視点に立ってみることで、今までとは違う見方をしてみよう」としている。「現場密着型である」手法 をとったのは、つぎのような理由による。「オランダ人にとって、風説書が作成されていく過程はつねに新鮮であり、時に苛立(いらだ)ちのもとであった。そ のため、情報の受け渡しの現場に関しては、日本人よりもオランダ人のほうがよき観察者であり、記録者だったのである。そもそも、二者間で伝達された情報の 研究に、受け手側の史料のみを用いたのでは不十分だろう」。
本書は、ヨーロッパ中心史観の「鎖国論」から脱し、東アジアとの関係を重視した近年の日本の対外関係史研究のうえに、さらにナショナル・ヒストリーから 脱して、日本史を相対化しようとしたものである。その結論は、「オランダ風説書は日本史にかくかくしかじかの重要な影響を及ぼした」というものではなかっ た。著者は、正直に「研究すればするほど、風説書の限界が見えてくるのも事実である。過大評価をする気にはなれない。あえて結論風に言うなら、風説書は、 江戸時代の日本が聞いたオランダ人のささやきでしかなかった」という。
このことは、著者がヨーロッパ中心史観からも、ナショナル・ヒストリーからも脱して、世界史のなかでオランダ風説書を読み解いたからにほかならない。し かし、世界史のなかで、理解することはそれほどたやすいことではない。オランダを取り巻くヨーロッパの情勢、バタフィアを取り巻く今日の東南アジアの情勢 など、正確な知識が必要である。たとえば、本書にある「一八二四年にイギリスとオランダとの間でアジアにおける両国の勢力範囲に線引きがなされた」という のは事実だが、「今日のインドネシアのみをオランダ領東インドとして確保した」のは、その数十年後である。日本にとって一九世紀前半と後半ではずいぶん状 況が違うように、東南アジアでも前半と後半ではずいぶん違った。同時代の世界のなかで、違う国・地域を理解するための世界史認識を、われわれはまだ充分に もっていない。
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