2010年6月14日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月14日

『近代文学の終り』柄谷行人(インスクリプト)

近代文学の終り →bookwebで購入

「柄谷ファンクラブをめぐって」

 せっかく柄谷行人のものをとりあげるなら『探究I』とか『探究II』とか『トランスクリティーク』とか、あるいは『日本近代文学の起源』など、堂々とそ びえ立つ記念碑的な作品から選ぶべきなのかもしれないが、本書後半に掲載された座談会中の次の一節に出くわして、この本を話題にしてみたくなった。浅田彰 や大澤真幸らを相手にNAM運動の失敗について振り返った部分である。
NAMがうまくいかなかった理由の一つは、まずインターネットのメーリングリストに依存しすぎたことです。(中略)もう一つは、 運動に経験のある未知の人たちに会って組織すべきだったのに、僕の読者を集めちゃったわけね。インターネットでやればどうしてもそうなる。それで、柄谷 ファンクラブみたいになってしまった(笑)。しかし、ファンクラブというのは実は互いに仲がわるいうえに、僕に対して別に従順ではなくて、むしろ柄谷批判 をすることが真のファンだと思っているから、その中で軋轢が生じる。

座談会の記事で「(笑)」という箇所を読んでこちらが笑うことは滅多にないのだが、ここは思わず笑ってしまった。この批評家について、こういう面か らもっと話題になってもいいような気がする。

 柄谷・蓮實時代のただ中で青春(?)を送った筆者にとって、批評家柄谷行人は「解放」と「抑圧」とを同時に体現する存在だったが、上のような箇所 を読んであらためて感じるのは、この人は上手に悪口を言われることができる人なのだなあ、ということである。柄谷は「群像新人賞」の審査員を長らく務め、 この賞の評論部門からは次々に�柄谷門下生�が巣立ってもいる。この�門下生�たち、たしかに端から見ていてもお互い仲が悪い。いや、仲が悪いだけでな く、いっつも「柄谷ってさあ、」などとお師匠のことを呼び捨てにし、「××がだめだよね」とか「××ができないじゃん」などと、ちょっと斜に構えたスタン スから次々に攻撃の矢を放つ。

 このようなジャブ攻撃が即批評につながるわけではないし、「柄谷は××と言っているが」的な引用がやや定型句化して批評のマンネリを招いたとの批 判もあるようだが、お師匠に憧れつつも悪口を言って、しかも門下生同志がお互い仲が悪いというのはなかなか得難い批評的環境だったのではないかと今さら思 う。

 NAMの場合もそうだったようだが、ネット経由のコミュニケーションでは喧嘩がおきやすい。返事が短すぎるとぶっきら棒に聞こえたり、ちょっと反 応がないと「あれ?怒っちゃった?」などと思ったりする。きわめて神経過敏なのである。その反動なのか、今ややたらと懇切丁寧な�マナー�ができあがり、 美辞麗句をつらねた「お褒め」を仲間同士送り合うといった慣行も見られる。

 もはや批評の言葉の使われ方はすっかり変わったのだし、80年代や90年代の批評にもいろいろと問題はあったのだと思うが、柄谷的批評の「からみ やすさ」はやはり振り返るに価するものではないかと思う。本書『近代文学の終り』は基本的に講演や座談会の記録を原稿化したもので、どちらかというと80 年代から90年代にかけての自身の活動を回想した部分が多くゼロから書いたという感じはあまりないが、それでも堂々と手の内を明かし、大きな話をしようと いういかにも柄谷らしいスタンスは健在である。とくに読み応えがあるのは「近代文学の終り」と題された三つめの章で、ここでは「近代文学は1980年代に 終わった」という柄谷のいわば持論が個人的な事情もからめて展開されている。語り口の明晰さはいつもながらのことだが、何より自らの議論を�要約�するこ とを厭わない姿勢が印象的である。

文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文 学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的である ことを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小 説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。

何とわかりやすく自分を語ってしまうのだろう。批評家もまた小説家と同じく、「要するにこういうことね、」とパッケージ化されることを嫌がるもので はないか。ところが柄谷の場合、むしろ執拗なほどに自己を単純化しようとするのである。たとえばその典型的な語り口は「くりかえすと、近代文学の終りと は、近代小説の終りのことだといっていいわけです。というのも……」というようなもので、堅牢なレトリックで自分の�ふつうさ�を覆い隠そうとするような 守りの構えがないのである。無防備なのである。

 もちろん、だからといってはじめから「さあ、文句を言ってください、殴ってください」とばかりに、左頬と右頬とを差し出しているわけではない。柄 谷の語りはその明晰さの一方で、独特の強烈な独演調があって、そう簡単にこちらの反論を許さないような鬼気迫る気配がある。しかし、まさに独演調であるが ゆえにそこには「アソビ」(「遊び」ではない)もある。上記の引用の「文学より大事なことがあると私は思っています」といった部分にも表れてもいるよう に、柄谷の言葉は「私は思っている」という基礎の上に築かれている。だからその効力は「私は思っている」ことの迫力を存分に生かしたきわめて�人間的�か つ�体温的�なものとなる。それだけに、きわめて恣意的にも見えることもあるのだ。たとえば次のような一節。

いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんです よ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たち は、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。

「そういう連中」が誰を指すのかはこの文章を読んでもよくわらかないし、これが議論として形をなしているかどうかも微妙なのだが、このように�マグ マ�が唐突に噴出してしまうのは、柄谷の言葉がもともとどこかできわめて独特な「私は思っている」のスタイルに依存しているためである。そしてその部分を 取り除いてしまったら柄谷批評の本当に良い部分が殺されてしまうだろうなと思う。

 もう一箇所あげよう。同じく「近代文学の終り」の章だが、コジェーヴによるヘーゲル解釈とリースマンの大衆消費社会分析とをからめたあたり。話題 が日本に移るのである。

日本的スノビズムとは、歴史的理念も知的・道徳的な内容もなしに、空虚な形式的ゲームに命をかけるような生活様式を意味します。 それは、伝統指向でも内部指向でもなく、他人指向の極端な形態なのです。そこには他者に承認されたいという欲望しかありません。たとえば、他人がどう思う かということしか考えていないにもかかわらず、他人のことをすこしも考えたことがない、強い自意識があるのに、まるで内面性がない、そういうタイプの人が 多い。最近の若手批評家などは、そういう人ばかりです。

「最近の若手批評家などは、そういう人ばかりです」というような飛躍にはややびっくりするかもしれない。ヘーゲルやコジェーヴを話題にしたそれまで の慎重かつ丁寧な議論の展開からすると、日本に話題が移った途端に驚くほど話が性急になっている。

 しかし、このような性急さや唐突さにしても、一方ではたしかに柄谷の無防備さや場合によっては弱点につながるものかもしれないが、やはり持ち味の 表れなのだ。たとえば柄谷の�文芸批評期�のものでもとくにあざやかな古井由吉論(『畏怖する人間』所収)や村上春樹論(『終焉をめぐって』所収)では、 何より目につくのがテクストの細部に注目した「小さな話」から、スケールの大きい「大きな話」にジャンプするタイミングの絶妙さなのである。筆者などはそ うしたジャンプの手際に(やや古いが)T・S・エリオットの批評などを思い出したりもするのだが、その後、文学に「終り」を見た柄谷がどちらかという「大 きな話」にシフトを移したのだとしても、そもそも柄谷の批評活動を動機づけてきたのはレベルの違う話を何とか結びつけようとする衝動だったのではないかと いう印象はある。

 このような無防備さには明らかに人を引きつける吸引力がある。その結実としての「ファンクラブ」について、「ファンクラブというのは実は互いに仲 がわるいうえに、僕に対して別に従順ではなくて、むしろ柄谷批判をすることが真のファンだと思っているから、その中で軋轢が生じる」などと振り返ってしま えるあたりに、う〜ん、なかなかいいね、と思ってしまう、そういう本なのである。


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