2010年6月30日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月28日

『ヨハネス・ケプラー』 アーサー・ケストラー (ちくま学芸文庫) / 『The Sleepwalkers』 (Penguin)

ヨハネス・ケプラー—近代宇宙観の夜明け
→bookwebで購入
The Sleepwalkers
→bookwebで購入

 ケストラーの『ヨハネス・ケプラー』は科学史の本として異例のベストセラーとなった『The Sleepwalkers』(1959)の第四章の邦訳である。あまりにも面白かったので原著をとりよせて最初から読んでみた。

 「人間の宇宙観の歴史」と副題にあるように本書は古代バビロニアで天文観測がはじまった紀元前3000年から17世紀の科学革命までの五千年近い 流れをあつかっているが、力点は近世の科学革命におかれている。全600ページのうち、古代ギリシアの宇宙観を述べた第一章「英雄時代」70ページ、ヨー ロッパ中世の宇宙観を述べた第二章「暗黒の間奏曲」30ページに対して、コペルニクスを描いた第三章「臆病な聖堂参事会員」は100ページ、ケプラーを主 人公にした第四章「分水嶺」は200ページ、ガリレオとニュートンを論じた第五章「道のわかれるところ」は90ページを占めている。

 最初の二章は科学革命の前ふりにすぎないが、イオニア学派とピタゴラス学派の驚くべき科学的知見を述べた部分は力がこもっている。アリスタルコス はコペルニクスと同じ太陽系モデルを作りあげていたし、アルキメデスはガリレオの直前まで達していた。ヒポクラテスとパラケルススを隔てる距離はただの一 歩にすぎない。ところがこの一歩を越えるために1500年かかったのである。

 1500年も回り道をしなければならなかったのはプラトンとアリストテレスによって観念論が打ち立てられ、古代唯物論が忘れられてしまったからだ とケストラーは断ずる。唯物論対観念論という図式で片づく問題だとは思わないが、本書のテーマは科学革命にあるので宿題にしておこう。

 いよいよ第三章だが『コ ペルニクス—地球を動かし天空の美しい秩序へ』などで思い描いてきたコペルニクス像とのあまりの違いにのけぞった。

 コペルニクスの兄のアンジェイに問題があるらしいことはギンガリッチの本や『回転論』の二種類の邦訳の解説でほのめかされていたが、ケストラーに よると問題があるどころではなかった。同僚の聖堂参事会員から多額の借金をしたり、聖堂の公金を使いこんだりといった金銭スキャンダルもさることながら、 イタリア留学からもどった時には梅毒に感染していたのだ(記録では「癩病」となっているが、ケストラーは当時新大陸から持ちこまれて猖獗をきわめていた梅 毒だろうと推測している)。

 梅毒はゆっくりと進行していき、とうとう顔にまで症状が出はじめた。参事会はパニックにおちいり少額の年金と引き換えに辞任と市から退去を求めた が、アンジェイは馬耳東風、梅毒で崩れた顔で市を歩きまわり、参事会の席にまであらわれた。参事会はついに音を上げ、聖職者の身分を保証するとともに高額 の年金をあたえることでやっとイタリアに追い払った。

 ケストラーがこういう個人的スキャンダルをあばいたのはコペルニクスが太陽中心説の公表に及び腰だった理由をさぐるためだ。

 「それでも地球は動いている」というガリレオが言ったことになっている台詞が有名なので、コペルニクスが『回転論』を長く篋底に秘めていたのも宗 教裁判を恐れたのだろうと考えがちだが、この推定には根拠がない。確かに『回転論』は教皇庁によって条件付き禁書に指定されたが、それは初版刊行後70年 以上たってからのことだし、ガリレオの巻き添えになったという面が強い。

 コペルニクスの太陽中心説は噂でローマに伝わり教皇の耳にも達していて、好意的にむかえられていた。シェーンベルク枢機卿はもっと詳しく教えてく れという書簡まで出している。親友のギーゼ司教などは『回転論』を出版するように何度もせっついている。すくなくともコペルニクスが生きていた頃は問題に なる心配などはなかったのだ。

 ではコペルニクスは何を恐れていたのか。ケストラーは世間の笑い物になることを恐れていたのだと推測している(実際、地動説が笑い物になっていた という記録がある)。

 聖職者にあるまじき汚名にまみれた兄をもったことで、青年時代のコペルニクスは世間的にも参事会の内部でも孤立していたことだろうし、嘲笑には人 一倍敏感になっていたことだろう。ケストラーはコペルニクスをいじけてひねくれた人物として描いているが、晩年のダンティスク司教に対する無礼な態度から するとこの描写には説得力がある(ダンティスク司教は悪役にされることが多いが、やり手の外交官出身だけに礼を失するようなことはしていない)。

 兄アンジェイはレティクスとの関係にも影を落としているとケストラーは述べている。社交的なレティクスにコペルニクスはアンジェイの面影を見たの ではないかというのだ。

 レティクスは多数の計算間違いをふくんだ『回転論』の改訂版を出すようにもとめられたのに手をつけずじまいだった。『コ ペルニクスの仕掛人』ではレティクス自身の運命の暗転に原因をもとめていたが、ケストラーは『回転論』に自分の名前が一度も言及されていないの で、コペルニクスに裏切られたと思いこんだのだとしている。ありそうな話ではある。

 さて本書の立役者というべきケプラーだが、コペルニクスに輪をかけた困った人物なのである。恩師のメストリンにあてた書簡がたくさん引用されてい るが、文面は自己憐憫と傲慢のかたまりで、こういう手のかかる弟子と文通をつづけたメストリンの忍耐力に感服した。

 ケプラーの生涯にはチコ・ブラーエとガリレオもからんでくるが、どちらも問題だらけの人物で苦笑しながら読みすすんだ。天才だからしょうがないと もいえるが、あれくらい人格が歪んでいないと後世に残る仕事ができないということだろうか。科学史としての面白さもさることながら人間ドラマとしても読み ごたえがある。

→『ヨハネス・ケプラー』を購入

→『The Sleepwalkers』を購入

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月29日

『日本赤十字社と人道援助』黒沢文貴・河合利修編(東京大学出版会)

日本赤十字社と人道援助 →bookwebで購入

 「日本赤十字社の歴史は、その高い知名度に反して、一般的にはあまりよく知られていない」という。その理由は、「第一に、人道援助そのものにたいする一 般的な関心の高まりが、湾岸戦争以降の「国際貢献」をめぐる議論に触発された側面があり、それゆえ比較的近年に属する現象であること、第二に、戦前・戦後 の日本赤十字社の歴史にたいする認識不足を背景とする日赤の活動自体への関心の低さ、第三に、とくに研究者にとっては、日赤の所蔵していた原史料への接近 の困難さ(史料の消失・散逸のほか、非公開措置等に起因する)などの要因が、主としてあったためである」。

 しかし、「そうした研究状況を一変させうる史料上の変化が、二〇〇五年に起こった」。「博物館明治村が所蔵していた昭和初期頃までを主とする日本赤十字 社本社関係の残存史料が一括して、日本赤十字豊田看護大学に移管され、研究者がそれを利用することが可能になった」のである。本書は、その新たに利用が可 能になった史料を使った共同研究の成果の一部である。

 本書の特色は、つぎの3つにある。「第一に、これまで研究の乏しかった日本赤十字社を対象とする学術書であること、第二に、これまで利用されることのな かった日本赤十字社本社関係の原史料を利用した研究成果であること、第三に、博愛社・日赤の誕生から昭和初年までの主要な活動に力点をおきながらも、現在 までを視野に収めた通史的研究であること」である。

 日本赤十字社の歴史が研究されなかった理由は、19世紀後半にあいついで設立されたヨーロッパなど世界各国の赤十字社の起源にもある。「一九世紀後半の ヨーロッパ社会において、赤十字の掲げた戦時救護の人道理念は、国境と国益、政治的立場を超える普遍的な理念として承認されたものの、他方では、政府と軍 との関係なしには成立しえないというジレンマのなかでしか現実のものとはならなかったのであり、またそうでなければ赤十字社は存立しえなかった」。

 ヨーロッパでこのような理念が出てきた背景には、「徴兵制を導入したナポレオン戦争以来、多くの国民の戦争参加が常態化し」、「傷病兵の増加と人道主 義」とがあいまったこと、「西洋諸国が近代的な国民国家となり、国家間の戦争が絶対君主時代の傭兵や常備軍ではなく、国民軍同士の戦いとなるにつれて、増 大する戦死者や傷病兵にたいして、政府としても大きな顧慮を払わざるをえなくなっていた」ことがあった。

 国際性という普遍的な側面をもちながら、国家性という個別的側面をもった赤十字社の活動は、近代において各国ごとにおこなわざるをえなかった。さらに オーストリアや日本のような君主制国家では、忠君愛国という要素が加わった。日本では、1887年に博愛社から日本赤十字社へと改称されたとき、「本社ハ 皇帝陛下、皇后陛下ノ至貴至尊ナル保護ヲ受クルモノトス」と、「天皇・皇后による保護が明示されるまで強められることになった」。とくに皇室の女性による 関わりが大きく、「戦時に際して包帯を作成することは皇后のつとめ」となり、「天皇が行幸せず皇后だけが行啓した場合の行き先は日赤、病院、慈善の順」と なった。日本赤十字社の人道的活動は、「「報国恤兵」と「博愛慈善」の基礎をなす「国家」「天皇」「人道」の三要素」に基づいていた。そして、「赤十字に たいして保護を与えることで、近代における天皇・皇后、そして皇室のイメージが形成されていった」。

 第二次世界大戦中の日本は捕虜の取り扱いに問題があったことでよく知られているが、本書が主に扱う昭和初期まではジュネーブ条約をよく遵守していた。日 清戦争でも日露戦争でも、日赤の活動は国際的に高く評価された。その背景には、「近代日本を文明国として欧米諸国に認知させるという、日本政府の大きな国 家目標が内包されていたのであり、またそれにより日本が長年追い求めてきた欧米諸国との不平等条約の改正に役立てたいという外交的思惑があった」。

 それが、1929年の捕虜条約を日本が批准しなかったことから、国際赤十字の一員として活動していくことが困難になっていった。「日露戦争における日赤 ほど称賛された赤十字社は他に例がなく」といわれた国際的評価は、わずか40年のあいだに劇的に変化し、「一九四一年から一九四五年の太平洋戦争中の同社 ほどその失敗によって国際的な屈辱を味わった赤十字社もまたない」という事態に陥った。

 それは、「赤十字の掲げた人道は、政府と軍との関係なしには達成しえないというジレンマのなかで実現した」ことと深く関わっている。第二次世界大戦中の 日本赤十字社の活動は、「愛国主義にからめとられ、同社が軍国主義的に組織化」されて、「非人道的行為を阻止したり抑止したりすることができなかった」。 赤十字と愛国主義の関係は、歴史的につぎのように説明されている。「一九世紀人道主義の精華でもある赤十字運動の発足は、前近代的な慈善のありかたを問い 直す素地ともなっていた。西欧諸国における中産階級の成長は、いわゆる慈善活動を、君主や貴族、大ブルジョワジーなど特定の富裕な個人による機会主義的で 単発的で多額の寄付や贈与に依存する方式から、中産階級による、より少額ではあるが定期的で広範な寄付にもとづく方式へと移行させた。一九世紀半ばから第 一次世界大戦期までに、ヨーロッパの主要国においては民間の拠出金による大規模な博愛団体の創設が可能となっていたのである。赤十字社は、前線においては 自国軍に協力して傷病兵の苦痛を軽減し、銃後においては国民の不安を緩和し、この意味で前線と銃後をつなぐ役割を果たしたが、赤十字社の人道活動が国民の 幅広い支持と年拠金の供出によって可能になればなるほど、赤十字と愛国主義の距離はますます近いものになっていった」。

 残念ながら、「日中戦争から太平洋戦争までの時期、とくに日赤がその全精力を傾けた太平洋戦争期の戦時救護関係の原史料は日赤本社に保管されており」、 依然として非公開のままである。「あとがき」で、編者のひとりはこれからの主要な研究課題として4つあげているが、その3番目に日本側の史料の公開だけで なく「日中戦争・太平洋戦争期の日赤の活動を理解するためには、同時代の戦争を経験した各国赤十字社、とりわけ総力戦体制下の各国赤十字社の活動の実態と の対比が必要不可欠な作業」であると述べている。

 赤十字社の活動は、日本の近代化と戦争を考えるうえで、ひじょうに重要な問題を含んでいるが、その前に世界史のなかでの把握が必要である。日本赤十字社 の活動は、近代国民国家と国際社会との関係を抜きにして語れないからである。世界史学においても日本史学においても、本書は具体的な事例研究の第一歩とな る基礎的情報を提供してくれる。

→bookwebで購入

asahi shohyo 書評

私の日本語雑記 [著]中井久夫

[掲 載]2010年6月27日

  • [評者]斎藤環(精神科医)

■IT社会の影響憂い"言語多様性"を擁護

 著者は「風景構成法」の開発や統合失調症の「寛解過程」の研究、震災体験を契機としたPTSDの研究などで知られる精神科医であ る。

 私を含むある世代以上の精神科医には、数多くの"中井伝説"が知られている。臨床家としてのそれはもとより、「ことば」にまつ わる伝説が実に多い。「本の背表紙を眺めていると中身が全部出てきて苦しいからと、すべて逆さまに並べていた」「ドイツ語の読書で疲れた頭をフランス語の 本で癒やしていた」等々。

 色調が浮かばないゆえロシア語だけは駄目だったと恐ろしいことを口にする中井には、完全に余業の域を超えた翻訳家としての顔が ある。それも精神医療に限らず、数多くのギリシャ詩の翻訳やヴァレリーの代表作『若きパルク』を、詳細な注解付きで出版している。

 こうした背景を踏まえるなら、中井がはじめて「ことば」を主題に取り上げた本書が、いかに待望されたものであったかは容易に理 解されるだろう。むろん「雑記」とあるように、体系だった思想が示されるわけではない。しかし数学者が数の実在を信ずるように、中井が"言葉の実在"へと 向ける篤(あつ)い信頼は、本書の通奏低音として響いている。

 冒頭、まず「あのー」の機能が徹底して解剖される。この軽んぜられがちな間投詞は、実は内向的なためらいであり、語りかけの作 法であり、やんわり聴衆を巻き込む方略であり、語りに情意を生み出す潤滑油である、と。

 あるいは日本語における文末処理の難しさが語られる。文意の否定・肯定、あるいは敬語のレベルは文末で決まる。ここから中井は 「演算子文法」を着想している。文末が次の語や文を喚起する「接続の妙」に関する技法論であるという。

 以上を読むだけでも、中井の発想が徹底して臨床家視点のものであることがわかる。間投詞や言葉の接ぎ穂をどうするかで、面接の 雰囲気ががらりと変わってしまうことは、臨床家ならみな覚えがあることだ。

 本書の後半、中井の相貌(そうぼう)は翻訳家としてのそれに変わっていく。「言語は風雪に耐えなければならない」とする中井 は、言葉をあたかも言語世界という生態系に棲(す)み分け進化する生きものとみなす。

 それゆえ中井が憂うのは、IT化がもたらす言語(実質的には英語)の一元化である。「絶対的な言語支配で地球を覆おうというの がグローバリゼーション」であるとして、何が問題なのか。一つには「言語専制下では、複雑な事態に対して過度の単純化が行われ」がちなためだ。そうなれば 「世界はすりガラスのように見えなく」なり、あるスローガンのもとで自壊するかもしれない。それゆえ中井は、生物多様性と同様に"言語多様性"を擁護しよ うとする。

 ここに至って、私たちは気付くだろう。精神科医と翻訳家がともに「文化移転者」とされるのは、多様で複雑な世界の肯定という責 務を共用しているためであることに。

    ◇

 なかい・ひさお 34年生まれ。精神医学者。神戸大学医学部教授、兵庫県こころのケアセンター初代所長などを歴任。『記憶の肖 像』『家族の深淵(しんえん)』など。『カヴァフィス全詩集』の翻訳で第40回読売文学賞の研究・翻訳賞を受賞。

表紙画像

私の日本語雑記

著者:中井 久夫

出版社:岩波書店   価格:¥ 2,100

表紙画像

記憶の肖像

著者:中井 久夫

出版社:みすず書房   価格:¥ 3,150

表紙画像

家族の深淵

著者:中井 久夫

出版社:みすず書房   価格:¥ 3,150

asahi shohyo 書評

大気を変える錬金術—ハーバー、ボッシュと化学の世紀 [著]トーマス・ヘイガー

[掲載]2010年6月27日

  • [評者]辻篤子(本社論説委員)

■生命を育み破壊する窒素の物語

 大気の8割を占める、ありふれた窒素の知られざる顔——。窒素を利用する画期的な方法を開発した2人のドイツ人化学者の苦闘を描い た本書は、文明史に深くかかわる窒素という元素の物語でもある。

 窒素は矛盾に満ちている。生物に不可欠で、肥料として生命を育む一方、それを破壊する爆薬ともなる。その原料となる硝石はかつ て、激しい争奪戦の的になった。

 また、大気中にあふれているのに、生物はそのままでは利用できない。のどが渇いても海の水を飲めないのと同じだ。

 「飲む」には窒素を「固定」する必要があるが、自然界で窒素を固定できるのはマメ科の植物の根につく根粒菌などの窒素固定細菌 と、稲妻くらいだ。

 20世紀初め、人工的に窒素を固定する、つまり「空気をパンに変える」ことに成功したのが本書の主人公たちである。2人の名か ら「ハーバー・ボッシュ法」と呼ばれ、肥料の大量生産の道を開いた。人類を飢えから解放し、ノーベル賞も受けた化学の輝かしい成果である。

 本書は、この「歴史上最も重要な発見」のその後を克明に追う。科学者の栄光と悲劇、科学がもたらす光と影、その落差には慄然 (りつぜん)とせざるを得ない。

 ユダヤ人のハーバーは毒ガスの開発を指揮し、結局はナチスに追われる。化学企業のトップに上り詰めたボッシュは、その装置がド イツの戦争継続を助けたのではと苦しみ抜き、ともに失意のうちに世を去った。

 今や、自然が固定するのとほぼ同量の固定窒素が彼らの方法を使って生産されているという。私たちの体内の窒素の半分は工場生ま れであり、世界の人口の半分はそのおかげで生かされているといっていい。その多くはその方法の生みの親の名前も知らないままに。

 肥料としてまかれた窒素の半分は吸収されず、川から海へ、また大気へと出ていく。放たれた固定窒素が地球環境にとって新たな懸 念材料であることもようやくわかってきた。

 科学の力を得た窒素の物語の終章はまだ見えない。

    ◇

 渡会圭子訳、白川英樹解説/Thomas Hager 米国の医化学系ジャーナリスト。

表紙画像

大気を変える錬金術——ハーバー、ボッシュと化学の世紀

著者:トーマス・ヘイガー

出 版社:みすず書房   価格:¥ 3,570

asahi shohyo 書評

生き方の不平等—お互いさまの社会に向けて [著]白波瀬佐和子

[掲載]2010年6月27日

 誰が誰に向かって、何のために不平等を語るのか。少子高齢化論などを専門とする社会学者であ る筆者は、そこから説き起こす。誰でも、問題の当事者になり、不平等の不条理さに直面する可能性がある。「お互いさま」とは、生きるうえでのリスクを、人 とのつながりの中で、最小限にするような関係。「標準的」なライフコースに沿わない生き方も考慮した、支え合いの制度設計が必要だという。子ども、若者、 働く男女、高齢者というライフステージに沿い、不平等のメカニズムを解明し、所得税改革による再分配政策の見直しなどの処方箋(しょほうせん)を示してい る。

2010年6月28日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月28日

『アガンベン入門』ゴイレン,エファ(岩波書店)

アガンベン入門 →bookwebで購入

「初の入門書」

 アガンベンの仕事もかなりまとまってきて、彼の思想を紹介する書物が登場し始めた。英語版でも五冊から六冊はある。これはドイツの研究者による入門書で ある。雑誌『現代思想』の特集号(二〇〇六年六月号)を別とすると、日本では初の入門書だろう。

 著者はまずアガンベンの思索の方法を「狩猟」の比喩で考える。「アガンベンはさながら〈狩猟者〉のように、さまざまな時代の多様な由来をもったテクスト の草むらに息をひそめて、引用の機会を待ち受けている。しかもその引用は、専門的学問の外部では行きあたることがないようなもの、つまり専門家の手による テクスト読解のなかでしかお目にかかれないような傑出したものなのだ」(p.15)。なかなか言い得て妙である。

 第二章の文学と哲学の関係を探った章は、「現勢態と潜勢態」の節が、アガンベンに固有の潜勢態の概念を詳しく紹介していて、参考になる。重要なの は「非能力は能力の反対ではない」(p.52)という発想だという。「非能力はある固有の力をもっているのであり、その力そのものである。こういう想定 は、アガンベンが人間的共同体の形式について、それをつい実体的に定義してしまう伝統的な理解とは違った仕方で、もっと深いところが考察しようとするとき に重要な意味をもってくる」(同)。ナンシーの『無為の共同体』につながる重要な考え方だ。これはカフカ解釈にもつなげて考えられるだけでなく、「主権の パラドックス」(p.97)の結び目をどう断ち切るかとも関わるのである。

 アガンベンの思想の紹介としては、第三章の「ホモ・サケル・プロジェクト」が圧巻だろう。ここでは例外の論理、剥きだしの生、ホモ・サケル、強制 収容所などの重要な政治的な概念が詳しく紹介される。ドイツの観念論とロマン派に詳しい著者の独自の考察も加わって、興味深い部分である。

 例外の論理については、アガンベンがシュミットを持ち出す前に、古代のギリシアのピンダロスの作品を引用しながら、「法治国家が主権の問題を法に 内在する問題の次元で解決しようとする試みは、すでに古代のテクストのなかにあったと見ている」(p.85)ことは、この問題が国家そのもののうちに含ま れていることを示すものであり、いろいろと考えさせられる。

 第五章の「エコノミーの系譜学」の章は、最近のアガンベンのエコノミーと神学の結び付きに関する考察で、ごく短いものだ。この問題を集中的に展開 した『王国と栄光』などは、まだ最近の書物である。「アガンベンは宗教と密接に結びついた主権性という政治学的パラダイムと並べて、経済学を第二のハラダ イムとして設定した」(p.196)のであり、この問題の考察は、これからの大きなテーマとなるだろう。オイコノミアは伝統的に「神の配剤」として、神学 的に考えられたきた概念であり、これがアガンベンの今後の展開で、近代のエコノミーとどうつながってゆくか、興味深々というところである。

 注でも批判や他の論文の紹介が行われていて、役立つ。たとえばアガンベンはベンヤミンの『歴史の概念について』のうちにパウロの手紙が隠れている ことを『残りの時』で指摘しているが(p.101)、それについて注ではマンフレート・シュナイダーの論文では「ベンヤミンノテクストのなかにパウロ書簡 からの引用が隠されているというアガンベンの見解に対して、反証を突きつけている」(p.216)と指摘する。さて、どんな反証なのか、つい知りたくな る。


【書誌情報】
■アガンベン入門
■ゴイレン,エファ【著】
■岩崎稔、大澤俊朗【訳】
■岩波書店
■2010/01/26
■243,9p / 19cm / B6判
■ISBN 9784000220576
■定価 3570円


→bookwebで購入

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月27日

『コペルニクス革命』 トマス・クーン (講談社学術文庫)

コペルニクス革命 →bookwebで購入

 パラダイム理論で知られるトマス・クーンが1957年に上梓した処女作である。クーンは本書の5年後、『科学革命の構造』でパラダイム理論を提唱 し、科学史のみならず思想界に衝撃をあたえることになる。

 本書にも2ヶ所「パラダイム」という言葉が出てくるが、まだ実例という意味にしか使われておらず、パラダイム理論でいう「パラダイム」の意味には 達していない。

 しかし「パラダイム」の萌芽はすでに見られる。「概念図式」である。

 本書は星をちりばめた天球という球体が地球を中心に回転しているという「二つの球」の概念図式から、無限の宇宙を無数の天体が重力の法則にした がって運動しつづけるというニュートンの概念図式に移行する過程を段階を追って跡づけているが、この概念図式は単なる天文計測のための方便ではなく、世界 における人間の位置を説明するという「心理的機能」をももっており、科学者であると否とをとわずさまざまな人々さまざまな分野に影響をおよぼしたと指摘す る。クーンは書いている。

 科学者も非科学者も同様に、実際に星は人間の地上のすみかを対称形に囲んでいる巨大な球上の輝点なのだ、と信じていた。結果として、二つの球の宇 宙論は何世紀もの間多くの人間に世界観、すなわち創造された世界での人間の位置を定義し、人間と神との関係に物理学的意味を賦与するもの、を実際に供給し た。

 閉じた「二つの球」からニュートンの無限空間への移行は運動の説明から社会のありかたまで人間の思考のあらゆる分野の変革とからみあっていた。

 「二つの球」の概念図式はアリストテレスの目的論的自然学と不可分の関係にあった。アリストテレスの自然学では万物は五大元素からなり、各元素に はあるべき場所が決まっていて、運動は元素本来の場所にもどるために生じると考えられていた。手を離すと物が地面に落下するのは物の中に「地」元素が含ま れているので「地」のあるべき場所=地球の中心に帰ろうとするためだし、炎が空に向かって燃えあがるのは「火」の元素の固有の場所が空にあるためだ。

 地上の世界は「地」「水」「火」「風」の四元素でできているが、天上世界は「エーテル」という第五元素のみでできていると考えられていた。一番外 側の恒星をちりばめた天球の内側に土星を載せた透明な天球殻が密着し、その内側には木星の天球殻、さらに火星、太陽、金星、水星の天球殻がきて、一番内側 に月の天球殻がくる。地上の世界とは月を載せた天球殻の直下にあたるので「月下の世界」と呼ばれる。アリストテレスの宇宙論をクーンは次のように要約して いる。

 アリストテレスは、月の天球の下側は宇宙を二つの完全に別々の領域、すなわちつまっている物質もまた支配している法則も異なる領域に分けている。 人が住む地上界は多様性と変化、誕生と死、発生と堕落の世界である。対照的に、天上界は不滅と無変化の世界である。すべての元素のうちでエーテルだけが純 粋でけがれがない。組み合わされた天球だけが、速度変化がなく、その占める空間が常に厳密に同一で、永久に元の位置へと戻ってくるという、自然かつ永遠の 円運動を行なう。天球の実体および運動は天の不変性および尊厳と両立しうる唯一のものであり、天こそが地上の多様性および変化のすべてを作り出し支配して いる。

 太陽と月を除く惑星は時々逆方向に動いたが、逆行運動を説明するために周天円が考案された。惑星を載せた天球殻にはかなりの厚みがあり、惑星は天 球殻の内部で厚み方向に円運動(周天円運動)をしているとされたのである。惑星が天球殻の厚みの中心から外側の領域で運動する場合は天球殻の回転方向と一 致するので順行するが、内側の領域にはいった場合は天球殻の回転方向と逆方向なので逆行して見える。しかも地球に近づくので明るくなるというわけだ。

 周天円システムを提案したのはアポロニオスとヒッパルコスだが、完成させたのはプトレマイオスだった。プトレマイオスは近地点や遠地点を説明する ために副周天円を考え、さらに運動速度の変化を説明するためにエカントという架空の中心を作りだした。プトレマイオスが『アルマゲスト』で提案した天球殻 システムは千年以上にわたって天文計算の基礎となり、ほどほどに正確な近似値を提供した。プトレマイオス以後の天文学者は計算結果を観測値により近づける ために周天円に周天円を重ねていき、プトレマイオスのシステムはしだいに複雑化していった。

 この流れに一石を投じたのがコペルニクスだが、注意しておきたいのはアリストテレス=プトレマイオスの地球中心説に対して太陽中心説を主張したの はコペルニクスが最初ではないということだ。古代ギリシアにはピタゴラス学派をはじめとする太陽中心説の流行があったし、ルネサンスになると新プラトン派 の台頭とともに太陽中心説が復活した。だが、太陽中心説をとなえたのはフィッチノのような詩人であって太陽賛歌・太陽崇拝にとどまり、太陽中心の天文学に はつながらなかった。

 天文学者が太陽中心説に関心をもたなかったのには理由がある。周天円を何重にも重ねあわせたプトレマイオスの地球中心の数学モデルはきわめて精緻 に組み立てられている上に、ある程度の精度の近似値を提供してくれたからである。より正確を期したいならさらに周天円を重ねて数学モデルを改良すればいい というのが当時の天文学者の考え方だったのだ。

 だが、コペルニクスは改良ではなく革命を選んだ。彼は『アルマゲスト』の改良ではなく、太陽中心の数学モデルをゼロから作りあげた。クーンは『回 転論』で重要なのは太陽中心説を定性的に描写した第一巻ではなく、定量的な説明を試みた第二巻以降だとしているが、数学モデルの構築が決定的だったのだ。

 もっとも『回転論』の数学モデルは成功しているとはいえない。逆行を説明するための周天円は不要となったものの、惑星の軌道を円とした上にエカン トを排除したために周天円は依然として必要なままだった。『コメンタリオルス』の段階では周天円は34ですむとしていたが、実際に『回転論』を書きすすめ ていくうちにどんどん増えてしまい、最終的には『アマルゲスト』よりも多くなってしまった。それだけ周天円を増やしても近似の精度が多少上がった程度で、 格段に正確になったわけではなかった。太陽中心説を裏づけらるようなデータが出てくるのは『回転論』刊行後半世紀以上たってからなのである(この発見が後 のパラダイム理論の重要な柱となる)。

 コペルニクスが地球中心説を棄てて太陽中心説に踏みこんだのは観測値が理由ではなかった。ではなぜ彼は太陽中心説を選んだのか。

 ここからが本書の読みどころで、ジャン・ビュリダンというスコラ哲学者がインペクトゥス理論という形で慣性の原理を発見していたとか、その弟子の ニコル・オレームがガリレオの『天文対話』の議論を先取りしていたとか、科学革命の背景が次々と明らかにされ興奮した。スコラ哲学が科学の進歩を阻害した などという見方が間違っていたことがわかる。

 パラダイム理論は濫用されてトンデモ化している面があるが、もともとは科学史の地道なケーススタディから生まれたものだった。そのことを確認でき ただけでも本書の大きな収穫である。

→bookwebで購入

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月27日

『山人の話 ダムで沈んだ村「三面」を語り継ぐ』語り手・小池善茂、聞き手・伊藤憲秀 (はる書房)

山人の話 ダムで沈んだ村「三面」を語り継ぐ →bookwebで購入

見えないものへの思いをたぐりよせる「聴き語り」の力

新潟県北部。河口からたどると、松山、村上、千綱、岩崩、三面を流れる三面川の上流に作られた奥三面ダムのために、三面地区は昭和60年9月に閉鎖され た。朝日連峰の山中にあって、一番近い隣の集落でも山形県小国町の入折戸までおよそ10キロ、新潟県朝日村岩崩までは20キロメートルと離れている。昭和 58年にスーパー林道が開通するまではとにかく移動は歩くしかなく、それでも自給自足で37,8代、立ち退きをせまられるまで継がれた暮らしがある。昭和 8年、その三面地区に生まれた小池善茂さんが、昭和15年〜20年代ころの暮らしを中心に「部外者に教えると不幸があるとされてきたことがらも、ここで残 さなければそれまで大事に守られてきたものがわらなくなってしまいかねない」と、狩猟、焼畑、行事、建物や道具について語ったのがこの本だ。

     ※

三面地区では、圧倒的に長く孤立する冬に備えるためにそれ以外の季節の暮らしはある。春、一番にやるのは薪集めで、表面が堅くなった雪の上を歩いて薪を 伐って川のそばに集める。川の流れをを利用して家まで運ぶのは8月になってからのこと。春の山菜も、乾燥させたり塩漬けにして冬に備える。冬には冬で、縄 ないや機織り、そしてカモシカ狩りがある。冬のカモシカの毛皮は綿毛があって温かく、ここでの生活には必需品。寒中の狩りはことに危険だから、役割、言葉 遣い、道具、装束、日にち、方角、山の神への祈りなど厳しいきまりを設けて自らの命を守る。「獲物である動物をどう見ていますか」、との問いに応えるかた ちで小池さんは、「大きかろうが小さかろうがとにかく山の神様がそういうふうに授けてくれたということ」と語る。授けてもらうためにはやってはいけないこ とがたくさんあって、それを厳密に守ることが大前提なのだ。

     ※

山の神に授けてもらった動物は、そのまま集落の中に運び入れることはない。いくら小さくても、そのまま持ち帰って飼うことは決してなく、むしろ皮を剥ぐ最 初の切れ目だけでも入れておく。仏様との区別をするのだと言う。たとえば、獲物を里に持ち帰る途中で休む場合は山側の道の傍らに少し高くなるように置く が、山で亡くなった人の場合には、集落の方に顔を向けて道に安置する。山で休むときに両手の指を組まず、両膝を抱えないのは、棺桶に入ったときに両手の指 を組み両膝を抱えるからだと言う。男衆が山に行っている間、家族は寺に行かないし、家族に生死があれば男衆は山に行かない。神と仏、獲物と人、また、亡く なった人と生きている人を厳密に区別する。それぞれの域に踏み込むことをせず、誤解を招くことも控え、そして、一緒に暮らす。

     ※

小池さんの話を聞いている伊藤憲秀さんは三面生まれではない。まとめるために6年間、新潟に移り住んだそうだ。話を丹念に聞くほどに細分化して途方にくれ たこともあっただろう。伊藤さんはそれを図にあらわすことで整理し、三面を立体的にとらえたようだ。その図の一部が、この本に付されている。狩り・行事・ 生態・栄養素の関係が図示された【三面の全体図】とカモシカとクマの【狩りの図】だ。伊藤さんはこの図を解説するという方法で、小池さんの語りに言葉を添 える。

 三面の人々は、月の満ち欠け、山境のある道、神棚など目に見えるものから、目に見えないものを感じ、その見えないものの世界につながっていたのか もしれない。
……
 もし、目に見えないものとのやりとりが、人にとっての目に見えない部分——心や魂にとって必要な栄養分のようなものなら、それは世の中がさまざまに発展 していっても、変わらずに大切なものと思われた。
……
 今の生活の中で、目に見えないものを感じ取る感性を思い出せたら、と思う。もともと人に備わる記憶のひとつと期待したい。語り手の話は、それをたぐる糸 車なのである。



あとがきに伊藤さんご自身のことがある。右足を失っていて、「そこだけ、どこか先に行っているような、よく分らない感覚」があり、「ものすごく遠くにいっ たとは思」うが、「見えないものを意識するきっかけになった」と言う。この本が、失われた三面の暮らしの記録でありながら寂しさを感じさせないのは、伊藤 さんの、見えないものを意識する感性によるところがとても大きいように思う。

→bookwebで購入

2010年6月27日日曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月26日

『知能の原理:身体性に基づく構成論的アプローチ』R・ファイファー&J・ボンガード(共立出 版)

知能の原理:身体性に基づく構成論的アプローチ →bookwebで購入

「身体性と結びついた知能」

本書は、知能を「身体性」との関わりから問おうとする研究書である。著者たちは、思考が行われる場を脳の外に、具体的には、身体と環境の接面において見よ うとする。彼らによれば、空間的認知や社会的認知はもちろん、(これはジョージ・レイコフの仮説だが)数学の実数や集合の概念さえも、身体性と無縁ではい られない。身体と環境の相互作用抜きでは、実は、認知的なカテゴリも成立し得ないというわけだ。そのような観点から、著者たちは、特に近年のロボティクス (ロボット工学)の知見に目配りしながら、知能の新しいありかを探ろうとしている。

わかりやすいところで言えば、たとえば、昆虫の歩行においては、脚の動きを全面的にコントロールする中枢が存在しない。にもかかわらず、昆虫がスムースに 歩くことができるのは、昆虫は、周囲の環境と生体の構造から来る物理的拘束をうまく利用して、脚と胴体の運びを自然と制御しているからだ。身体と環境の自 動的な相互作用・調整作用をあてにする、この種の「チープデザイン」が、情報処理のコストを大幅に押し下げている。著者たちが「知能」を見出すのは、まさ にこの地点においてである。すなわち、生態学的ニッチの「拘束」を前提にしつつ、それをうまく再利用して多様な形態を創発することが、「知能」の証とされ るのだ。石やガスバーナーの炎に知能はなくても、アリや蝶には知能がある。なぜなら、そこには身体と環境の相互作用のなかで、当初の制約をポジティヴに活 用する運動が認められるからだ……。このとき「知能」の有無は、たんに計算力の高低によって見定められるものではなくなっている。

現実的に人工知能をつくる際にも、サイモン=ニューウェル流の古典的な人工知能理論に倣って、トップダウン式にあらゆるパターンを想定していては、計算量 も膨大になるし、不測の出来事が起こればたやすく停止してしまう(ここからいわゆる「フレーム問題」が導かれる)。それに対して、知能の定義自体を拡張す ることを通じて、現実的に実現可能性を備えたエージェントを「設計」することが、著者たちの関心事なのだ(そこでは、フレーム問題におけるメタレベルの無 限背進という課題が、身体という物理的存在によって制約されることになる)。さらに、この身体性の重視は必然的に、人間、動物、昆虫、ロボット……のあい だの境界を壊すことにもなるので、我々の世界観にとっても重要な意味合いを持っていると言えるだろう。

では、この新たなパラダイムにおいて、優れた「知能」とはどういうものなのだろうか?たとえば、著者たちが考える「知能」には安定性や冗長性の問題、すな わち多少のエラーがあったとしてもうまく修正し対処するという能力が含まれる。その観点から、たとえば身体を「サブシステムの並列状態」として捉えること が可能となるだろう。身体は、視覚や触覚が相互に機能的にオーヴァーラップしているので——よってたんなる分散状態ではない——、その異なる感覚どうしの 組み合わせによって新しい未知のシチュエーションにも十分に対処することができる(120頁)。早い話が、新しい状況において、ある部分がダメになって も、別の部分で替えがきくことが、知能にとって重要なのである。

僕はこのくだりを読んで、二人の思想家を思い出した。一人は、かつて「ツリー」に対して「セミ・ラティス」を称揚した建築家クリストファー・アレグザン ダーである。アレグザンダーもまた、「オーヴァーラップ」がそこかしこで生じている構造を評価した。ツリー構造は、超越的な一点に他のすべての点が繋留さ れるので、中枢にダメージが生じればすべてがダメになるし、柔軟性にも乏しい。しかし、セミ・ラティス構造においては、ある要素はつねに複数の集合に所属 しているので、どこかにエラーが生じても全体は何とか維持されるだろう。こうしたオーヴァーラップを重視する点で、アレグザンダーの言うセミ・ラティス は、たんなるカオスや自然生成を意味しない。それはむしろ、ツリーとは異なる構成的デザインを推奨する原理である。自然と人工の「あいだ」を志向する態度 と言ってもよい。

もう一人は、GUIの父アラン・ケイの教育論である。従来のピアジェ流の心理学で言えば、幼児における「見る」段階から「シンボル」段階への移行は直線的 で、一度成長が完了すれば、古い段階は用済みということになる。それに対して、アラン・ケイの議論では、ある段階から次の段階への移行と見えるものは、た んに力点が変わった結果にすぎない。この議論では、いくつかの段階が直線的に並ぶのではなく、むしろ諸段階が並列化され、局面に応じてそのつど支配的な感 覚が変わるようなものとして捉えられている。アラン・ケイはこうした認識を、コンピュータと教育の問題に結びつけた。

むろん、以上のアレグザンダーやアラン・ケイの議論は、ロボティクスと直接の関わりはない。しかし、いずれも確実性よりは信頼性を——言い換えれば、理性 的には計算不可能な状況を、進化のプロセスのなかで適当に再配置=再結合してやり過ごすことを——志向するところに、ある共通項を有している。ここには、 一つの認識(エピステーメー)の雛形があると言ってもいいだろう。本書が興味深いのは、人工知能の問題を手がかりにして、まさにその認識の型が示されてい ることである。

→bookwebで購入

2010年6月26日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年06月25日

『現代写真論』シャーロット・コットン(晶文社)

現代写真論 →bookwebで購入

「あたかも世界を編集しているような「現代写真」のありよう」

写真ほど誕生以来、激しく変し多様化を遂げてきたメディアはないだろう。撮り方のスタイルや様式だけでなく、それがもつ社会的な意味が大きく変化してき た。写真はカメラで撮るものだから、おなじ二次元の表現でも絵画よりもスピード感がある。変化の変遷にはそうした「生産しやすさ」がどこかで関係している のだろう。

「現代美術としての写真」という原題が示すように、本書はアート作品としてギャラリーや美術館で流通している写真を8つのカテゴリーに分けて語った ものだ。評論というよりは紹介というような内容だが、分類の仕方に著者の論点を読み取るべきなのかもしれない。カテゴリーは以下のように分けられている。

1.あるコンセプトに従っておこなわれた行為の記録としての写真、2.物語を喚起させる絵画的要素の強い写真、3.中判や大判カメラで風景や建物を とらえた高画質の写真、4.日常で見過ごしがちな事物や空間を写し出した写真、5.親密な対象との深い感情的つながりを追求した写真、6.フォトジャーナ リスティックなシーンを報道とは異る視点でとらえた写真、7.名作写真・広告写真・映画のスチールからのリメイク写真、8.写真メディアの変化に着目した 「写真論」的写真。

こうした分類のもとに243点の写真が紹介されている。なんでもアリな印象で、これらすべてが写真の名のもとに展示されている場面を想像すると頭が くらくらするほどである。題材が写真ということだけが唯一の共通点。インターネットからとった画像を加工したトーマス・ルフの作品では、カメラすら使われ ていないのだ。

こうした多様な写真群がいま「コンテンポラリーアート」に場所を得て、美術館やギャラリーで展示され、コレクションされ、売買されている。「アート 写真が急速にその実体を現しはじめたのは1990年代に入ってからのことだ」と著者は書く。どうしてその頃に表に出てきたかは触れてないが、「実体を現し はじめた」という言い方は、ふたつのことを暗示しているように思われる。ひとつは「アート写真」という概念の登場によって従来の写真表現にそれまでとはち がう光が当てられたこと、それによってギャラリー展示にフィットする写真のあり方を模索する写真家が出てきたことである。

写真には本来決まったサイズがない。それが絵画との大きなちがいである。引き伸ばし機によって大きくも小さくも作れるし、一部をブローアップするこ ともできる。カテゴリー3の写真群は、そうした写真の融通無碍な特質をむしろ制御する動きと言えよう。最初からサイズを決めて撮影に入る写真家もいる。つ まりタブローに対するのと同じ態度で制作するわけで、それだけが理由ではないにせよ、美術館やギャラリーの空間が創作のプロセスを変化させたことはまちが いないだろう。

カテゴリー1の行為を記録した写真は、60〜70年代のコンセプチュアルアートの記録写真から派生したものだと著者は言う。パフォーマンスアート華 やかなりし頃は行為そのものが重要視され、写真は付随的なものにすぎなかった。だが、写真が作品として流通する制度と市場の成立により、作品の最終形とし て写真の比重が増してきたのではないだろうか。かように写真の存在は曖昧でゆらぎやすく、文脈によって立ち位置が変化する。かつて「日和見主義」というこ とばが揶揄的に使われたことがあったが、写真はまさに「日和見」的な性格をその本質に抱えもっていると言える。
ものの典型であるのがわかる。

写真と言葉の関係という古くて新しいテーマについても考えなくてはならないだろう。たとえばカテゴリー2のタブロー的写真では、作られたシチュエー ションで撮ったものと、まったく手を加えていない現実場面を撮った作品とが紹介されている。写真がもたらす印象はどちらもドラマチックで映画のワンシーン のようだが、その現場が演出されたものかどうかという情報は作品は含み込まれるのだろうか。こうしたタブロー写真の創作プロセスをどうとらえるのか、もっ と突っ込んで語られてもいいように思う。

テーマに分けて論じた本書は、写真によって世界を編集しているかような写真表現の現在をあぶり出している。写真には世界を可視化しようという欲望が あり、実際ありとあらゆるものがとらえられてきた。とくに小型カメラが一般に普及したと1950年代、60年代、写真家はコンセプトなしに目にするすべて のものを写真に収めようという無邪気な興奮に燃えた。それが過ぎ去ったあとにやってきたのが「現代写真」の時代であり、それぞれがテリトリーを決め、欲望 の一部を分担し、見せ方を考えて世界を再編集しているように見える

「本書では、最終的にはコンテンポラリーアートとしての写真は自律的なものであると考えており、写真の歴史を通してのみ考えうるという立場はとって いない」と著者は書く。だが「自律的」という印象はあまり受けないのである。70年代の「現代美術」がそうだったように、「現代」と名のつくものはある文 脈の上に成り立っているが、おなじように「現代写真」も美術の文脈の上に咲いた花のように思えてならない。

日本の写真家の作品も数人挙がっているが、あくまでも欧米の写真の動向にそって紹介されている。そのなかでいちばん年長なのは荒木経惟だ。「モダニ ズムが絵画や彫刻に匹敵する写真家の殿堂を作り上げようとした一方で、ポストモダンはそれとはことなる立ち場から写真を捉えていた。すなわち、写真という メディアを、制作、伝達、受容という観点から検証し、写真が本来持っている複製可能性や模倣性、虚偽性に注目したのである」。これはカテゴリー7のリメイ ク写真についての解説だが、70〜80年代に荒木がやってきたことの説明とも読めてしまった。それほど彼の写真活動は多岐にわたり、この本に登場する現代 写真のほとんどを試みてきたと言っても過言ではない。

だが彼および彼より上の日本の写真家たちは写真を「アート作品」とみなすことに違和感をもち、「タブローとちがう」点に写真の特質を求めようとし た。「写真とはなにか」を切実感をもって自問したのだった。だが、90年代以降の「現代写真」を見るのにそうした問いは不要である。むしろ理解のさまたげ になるだろう。こうした問いを無意味なものにするほど、欧米の「現代写真」に制度的な強さがあったということだろうか。

日本の戦後写真には欧米の影響をほとんど受けずに独自に進んできたおもしろさがある。そのことを主張する視点が日本の写真界に欠けているのを残念に 思う。これは写真家ではなく、評論家やキュレーターの課題なのだ。


→bookwebで購入

asahi science history archeology Jomon kaizuka period jinkotsu scull bone sex symbol Toyama

縄文前期の人骨、男女象徴の道具と埋葬 富山の貝塚で

2010年6月25日18時25分

写真:シジミの貝層に埋葬されていた2体の人骨。指さしているのが石斧、その真下の四角い石が女性を象徴するとされる石皿=24日、富山市呉羽 町北の小竹貝塚、大脇和明写すシジミの貝層に埋葬されていた2体の人骨。指さしているのが石斧、その真下の四角い石が女 性を象徴するとされる石皿=24日、富山市呉羽町北の小竹貝塚、大脇和明写す

図:  拡大  

 6千〜5500年前の貝塚から、男女を象徴する副葬品を抱いて埋葬された珍しい人骨などが見つかった。富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所が24 日、日本海側で最大級の貝塚とされる富山市呉羽町北の小竹(おだけ)貝塚で、縄文時代前期の人骨13体が良好な状態で出土したと発表した。縄文時代の遺跡 で、男女を象徴する道具とともに埋葬された人骨が確認されるのは珍しい。当時の死生観や葬送の形を知る一級資料とみられる。

 小竹貝塚の存在は戦後すぐから知られ、河川工事などに伴い県や市が断続的に調査してきた。今回は北陸新幹線の工事に先立ち、約1千平方メートルを調査し た。貝塚は「く」の字形に広がり、推定で約2万3千平方メートルの範囲に及ぶ。

 今回の調査区は貝塚の中央南寄りにあり、計13体の人骨は、深さ最大1.7メートル以上の貝層の上から見つかった。1体が体全体を伸ばす伸展葬で、11 体は手足を折り曲げる屈葬、1体は頭部と足だけだった。大量の貝層がカルシウムを補給し、粘土層でパックされて酸素が入らないなどの条件がそろって良好に 残ったらしい。

 このうち2体は同じ墓坑に埋葬され、1体は20センチ四方のくぼんだ石皿を抱き、もう1体は胴体付近に大小7点の石斧(せきふ)が置かれていた。縄文時 代の人骨に伴う石斧は男性の権威の象徴として、調理具の石皿は女性の象徴として副葬したとみられる例が報告されており、男女の社会的な役割を示していると される。

 現地を確認した岡村道雄・奈良文化財研究所名誉研究員(考古学)は「人骨は、この貝塚の集団の長(おさ)的な男と女だろう。こうした人骨と男女の道具を 伴う埋葬例は縄文前期では初めて。当時の墓制を知る上で貴重な遺跡だ」と話している。

 小竹貝塚ではこれまで、貝層と墓域と集落跡(竪穴住居群)が、そろってみつかっている。日本海側では、縄文前期の丸木舟などが出土した鳥浜貝塚(福井県 若狭町)があるが、それをしのぐ情報が得られると期待されている。

 現地説明会は、26日午前10時〜正午、午後1時〜3時。問い合わせは同埋蔵文化財調査事務所(076・442・4229)へ。(大脇和明、天野彰人)