2012年7月27日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年07月25日

『評伝 森鷗外』 山﨑國紀 (大修館書店)

評伝 森鴎外 →bookwebで購入

 2007年に刊行された鷗外のもっとも新しい評伝である。本文は大版の上下二段組で800頁を超え、それに20頁の年譜と参考文献、17頁の索引 がつく。写真は口絵に二葉、地図は津和野藩と浜田藩のいりくんだ位置関係を示すものが一枚掲載されているだけだが、図版を中心にした本は別冊太陽新潮日本文学アルバムなど入手しやすいものがあるので、これはこれで見識だと思う。

 明治十年代、明治二十年代のように元号にしたがって七部にわかれる。部立ては機械的であって、「第五部 明治四十年代」は明治40年から明治帝崩御までの5年間と他の期間の半分にすぎないが、鷗外がもっとも精力的に活動した時期だけに最長の270頁が割かれ ている。明治17年から20年におよんだドイツ留学が第二部と第三部に分断されていることからもわかるように内容に即した区分ではなく、本来滔々たるひと 続きの叙述の息継ぎくらいに考えた方がいいだろう。

 文学者の評伝は伝記記述と作品評価という二つの面をもつが、本書は作品評価に重きを置いており、鷗外作品は〖舞姫ӏのように白抜きの墨付き括弧で 示して一目で区別できるようにしている。特筆すべきはすべての翻訳作品に半ページから一ページの梗概と解説をつけている点である。鷗外は欧米の文学の果実 を日本にもたらすために全集の半分におよぶほどの厖大な翻訳を残したが、玉石混交はなはだしく、よほど時間のある人でないと手を出しにくい。本書によって 鷗外の訳業の全貌が明らかになったことは今後の鷗外研究に資するところが大きいと思われる。

 伝記記述については鷗外は生涯謹厳な人格者だったという見方を排し、小倉転勤以前の前半生は「人格者」という形容は当てはまらないとはっきり書いている。

 山崎正和氏は弟篤次郎が川田家へ養子にいく話をつぶした件を鷗外が「家長の地位」を確立した画期と位置づけたが(『鷗外 闘う家長』)、本書は森家の実質的な家長は母峰子であり、養子反対も母の意を代弁したものとしている。鷗外は極度のマザコンだったから、こちらの解釈の方が腑に落ちる。

 さて、いわゆるエリス事件である。2011年に六草いちか氏によって『舞姫』のエリスのモデルになったエリーゼ・ヴィーゲルト(本書はとっくに否 定されているヴァイゲルト説を採用している)について決定的な発見があったので、この項に関する限り本書の記述は古くなっているが、石黒忠悳宛書簡に見ら れる「其源ノの清カラサルヿ」、山﨑氏が世に紹介した小池正直書簡の「伯林賤女」という文言、そして子孫がまったく見つからないことを根拠に貧しい健康な 少女を性欲処理のために金で囲い者にしたとしている。エリーゼは『雁』のお玉のような境遇にあったというわけで、お玉の描写とエリスの描写に共通点がある という指摘もある。

 「源ノの清カラサルヿ」とあるように動機は不純だったが、鷗外は途中から本気になってしまい、甘い見通しのもとに日本に招いて大事件を引き起こし たというのが本書の要諦である(貧しい少女だったら日本までの旅費はどうしたのかという問題がもちあがるが、その点の考証はない)。

 なぜ鷗外がエリーゼを断念したかは直接は語っていないが、著者が母の意向を想定しているのは以下の条に明らかだ。

 鷗外は、母の徹底した管理の中で育ったため、青年期に至る鷗外は決して強くなかった。〖舞姫ӏの豊太郎は、まさに二十代の鷗外の性格でもあっ た。……中略……帰朝してからの鷗外の執拗な啓蒙活動は、むしろ、弱い自分を鞭打つため、逆に打って出たようなところがあったことは否めない。だから、あ のいくつかの論争は不自然さがつきまとい、後世、批判される面も残されたのではなかったか。

 説得力のある評だと思う。エリーゼの帰国後、ばたばたと結婚した最初の妻赤松登志子に対する仕打ちも、その後の医学界における言動も多分に八つ当たり的であって「家長」とか「人格者」とかはとても言えない。圭角がとれるのは小倉にいってからのようである。

 鷗外にとって母の存在は大きかったが、母以上に影響をおよぼしたのは津和野とその文化的背景だと著者は考えている。

 津和野は西側を長州という大藩と境を接していた。軍事力や経済力では到底かなわないので、文化力で対抗しようという合意ができていて、四万三千石 の小藩なのにいち早く藩校養老館を設け、尚学の藩として知られていた。実際、東側で接するやや規模の大きな浜田藩がたいした人材を出さなかったのに対し、 津和野は西周、森鷗外を筆頭に十指に余る人物を送りだしている。浜田近郊出身の島村抱月も津和野藩の飛び地の生まれだったという。

 最後の藩主亀井茲監の果たした役割も大きい。茲監は藩学を儒学中心から国学中心へと転換させたが、その際、支柱としたのは脱藩して京都で名をなし た大国隆正の学問だった。大国は平田篤胤門下だったが、異人を排撃するたぐいの攘夷を「小攘夷」と批判し、「万国をひきよせ、わが天皇につかしめたまは ん」とする「大攘夷」を提唱した。養老館が和蘭語を教えるという柔軟さをもちえたのは大国の「大攘夷」思想の帰結であった。

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