2012年07月10日
『原理主義の終焉か−ポスト・イスラーム主義論』私市正年(山川出版社)
2012年6月30日、エジプト大統領選に当選したムハンマド・ムルシ氏が、正式に大統領に就任した。ムルシ氏は、穏健派イスラーム団体のムスリム同胞 団が擁立し、自由な選挙で選ばれた初の文民大統領である。この報道を聞いた人の多くが、「イスラーム主義」の勝利と理解したかもしれない。しかし、著者私 市正年は、「イスラーム主義運動は、一九八〇年代末に頂点に達し」、その後「ポスト・イスラーム主義」の時代に入ったという。
まず、この「イスラーム主義」などのことばを、著者がどのような意味で使っているのか、つぎの文章で確認しておこう。「イスラーム主義(イスラーム原理 主義)運動とは、現代においてイスラーム法(シャリーア)にもとづく国家を建設しようとする政治運動(多くは社会運動、文化運動をともなう)をさし、シャ リーアにもとづく国家建設を主張しない広い意味での政治運動(トルコのAKP[公正発展党]など)をイスラーム運動と呼ぶ。両者を含む場合はイスラーム政 治運動という言葉を使う」。
本書は、つぎのような内容が5章にわたって書かれている。「一九六〇年代のナショナリズムの後退から、八〇年代のイスラーム主義(イスラミズム)の勝利 までを前史として概略を記述した後、九〇年代のテロリズムと内戦の時代から、二十一世紀のアル・カーイダによるグローバル・テロリズムへといたる過程を、 イスラーム原理主義の終焉とポスト・イスラーム主義(ポスト・イスラムズム)の時代への過程として理解、詳述し、それを踏まえつつ「アラブの春」の歴史的 背景と意味を明らかにしたい」。
このように時代を追って考察し、最後の「第5章 ポスト・イスラーム主義から「アラブの春」へ」で、イスラーム主義運動が挫折した直接的要因を、つぎの 3つに整理して説明している。「第一は、イスラーム国家の建設というユートピアをあまりに急ぎ過ぎたこと。アルジェリアのFIS[イスラーム救済戦線]の 場合も、エジプトのイスラーム団も大衆の支持をえたのち、イスラーム国家の建設を急ぐあまり、政治的プランや経済的プランの適用可能性を十分に検討しない まま、宗教的レトリックを優先したのである。第二は、権力の弾圧にたえ切れず、それとの直接対決に向かったこと。権力が圧倒的な武力によってさまざまな民 衆運動、あるいは民主的改革を踏みにじるのはつねであり、これにたえて大衆の支持を保ち続けながら、粘り強い闘いを続けないかぎり、運動は成功しない。こ の点でアルジェリアのFISもエジプトのイスラーム団も、権力との直接的衝突から、暴力闘争に走ったことは大衆の支持を失う大きな原因となった。第三は、 運動内部の多様な構成要素間の紛争・対立を平和的かつ民主的に解決する方法を見出せなかったことである」。
この挫折の後の変化をになったのは、「西欧「民主主義」陣営の圧力やイニシアティブによってもたらされたもの」ではなく、「一九九〇年代以降に大人の仲間入りをした青年層や女性たち」で、「地域社会の内部から変革のうねりを生じ」させた。
そして、著者は本書をつぎのようにまとめ、締めくくっている。「革命後、一年余しかたってない段階では状況が流動的であり、結論を急ぎ過ぎとのそしりを 招くかもしれないが、これまでの考察からつぎのような見とおしをもっている。革命後の国会議員選挙で、チュニジア(ナフダ党)でも、エジプト(自由公正 党)でも、さらにモロッコ(公正開発党)でもイスラーム政党が第一党の地位をえたことから、この政変をイスラーム主義の勝利とみる向きもある。だが、これ らのイスラーム政党はいずれも、トルコのAKPと同様に、シャリーアにもとづく国家という理念を否定しているのである。社会運動組織としてのムスリム同胞 団はシャリーアにもとづく政治体制という原理を放棄しないが、現実の政治はそれでは動かない(イスラーム主義に内在する矛盾)ということは、歴史体験から 明らかにされた。したがって、これらのイスラーム政党がよって立つ原理は、政治と宗教のたがいの自立(反宗教的ではない)であり、その志向はいわばイス ラーム的ナショナリズムである。イスラーム主義運動とは本質的に異なっているのである」。
この「ポスト・イスラーム主義」時代と、われわれの生活がどう結びつくのか、本書からはわからなかったが、影響がないわけはない。注視してみていきたい。
まず、この「イスラーム主義」などのことばを、著者がどのような意味で使っているのか、つぎの文章で確認しておこう。「イスラーム主義(イスラーム原理 主義)運動とは、現代においてイスラーム法(シャリーア)にもとづく国家を建設しようとする政治運動(多くは社会運動、文化運動をともなう)をさし、シャ リーアにもとづく国家建設を主張しない広い意味での政治運動(トルコのAKP[公正発展党]など)をイスラーム運動と呼ぶ。両者を含む場合はイスラーム政 治運動という言葉を使う」。
本書は、つぎのような内容が5章にわたって書かれている。「一九六〇年代のナショナリズムの後退から、八〇年代のイスラーム主義(イスラミズム)の勝利 までを前史として概略を記述した後、九〇年代のテロリズムと内戦の時代から、二十一世紀のアル・カーイダによるグローバル・テロリズムへといたる過程を、 イスラーム原理主義の終焉とポスト・イスラーム主義(ポスト・イスラムズム)の時代への過程として理解、詳述し、それを踏まえつつ「アラブの春」の歴史的 背景と意味を明らかにしたい」。
このように時代を追って考察し、最後の「第5章 ポスト・イスラーム主義から「アラブの春」へ」で、イスラーム主義運動が挫折した直接的要因を、つぎの 3つに整理して説明している。「第一は、イスラーム国家の建設というユートピアをあまりに急ぎ過ぎたこと。アルジェリアのFIS[イスラーム救済戦線]の 場合も、エジプトのイスラーム団も大衆の支持をえたのち、イスラーム国家の建設を急ぐあまり、政治的プランや経済的プランの適用可能性を十分に検討しない まま、宗教的レトリックを優先したのである。第二は、権力の弾圧にたえ切れず、それとの直接対決に向かったこと。権力が圧倒的な武力によってさまざまな民 衆運動、あるいは民主的改革を踏みにじるのはつねであり、これにたえて大衆の支持を保ち続けながら、粘り強い闘いを続けないかぎり、運動は成功しない。こ の点でアルジェリアのFISもエジプトのイスラーム団も、権力との直接的衝突から、暴力闘争に走ったことは大衆の支持を失う大きな原因となった。第三は、 運動内部の多様な構成要素間の紛争・対立を平和的かつ民主的に解決する方法を見出せなかったことである」。
この挫折の後の変化をになったのは、「西欧「民主主義」陣営の圧力やイニシアティブによってもたらされたもの」ではなく、「一九九〇年代以降に大人の仲間入りをした青年層や女性たち」で、「地域社会の内部から変革のうねりを生じ」させた。
そして、著者は本書をつぎのようにまとめ、締めくくっている。「革命後、一年余しかたってない段階では状況が流動的であり、結論を急ぎ過ぎとのそしりを 招くかもしれないが、これまでの考察からつぎのような見とおしをもっている。革命後の国会議員選挙で、チュニジア(ナフダ党)でも、エジプト(自由公正 党)でも、さらにモロッコ(公正開発党)でもイスラーム政党が第一党の地位をえたことから、この政変をイスラーム主義の勝利とみる向きもある。だが、これ らのイスラーム政党はいずれも、トルコのAKPと同様に、シャリーアにもとづく国家という理念を否定しているのである。社会運動組織としてのムスリム同胞 団はシャリーアにもとづく政治体制という原理を放棄しないが、現実の政治はそれでは動かない(イスラーム主義に内在する矛盾)ということは、歴史体験から 明らかにされた。したがって、これらのイスラーム政党がよって立つ原理は、政治と宗教のたがいの自立(反宗教的ではない)であり、その志向はいわばイス ラーム的ナショナリズムである。イスラーム主義運動とは本質的に異なっているのである」。
この「ポスト・イスラーム主義」時代と、われわれの生活がどう結びつくのか、本書からはわからなかったが、影響がないわけはない。注視してみていきたい。
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