2012年07月26日
『舟を編む』三浦しをん(光文社)
「読後、心地よい風が吹く作品」
日本に一時帰国するたびに、気になる言葉が増えてくる。こちらが普段海外に住み、目まぐるしく変わる日本語に対応できていないのが原因か、歳を取ると共 に若者との感覚がずれてくるせいかは分からない。テレビの司会者等も使っている「ぜんぜん+肯定的表現」などはいまだに違和感を感じるが、今回は大相撲中 継を見ていて、アナウンサーが「勝ちっぱなし」という言葉を連呼するのが気になった。広辞苑によると「その事をしたままで捨てておく意や、その状態が続く意を表す。」となっているので、誤用ではないのだろう。だが、私には「〜ぱな し」というのは、どうも負のイメージがまとわりつき、前者の意味しか思いつかない。「やりっぱなし」、「開けっぱなし」等、良い意味合いで使わないことが 多いだろう。故に「勝ちっぱなし」という発言を聞くと、このアナウンサーは当該力士が勝つことを面白く思っていないのだろうか、と感じてしまう。感性の違 いなのだろうか。
そんな時、友人の本棚で気になる本を見つけた。三浦しをんの『舟を編む』。どうやら辞書の編集に関する話らしいので、読んでみた。新しい辞書『大 渡海』を作り上げようとする、玄武書房編集部に集まる人々の姿が描かれている。こういった、普段私たちが知ることの少ない世界を描いた作品は多くある。時 として、ストーリーの巧拙や構成の質などよりも、身近ではない世界に関しての啓蒙の書として機能することも多い。それはそれで面白い。
『舟を編む』にも確かにそのような特色はある。昼食時でも、テレビから流れる音声に耳を傾け、用例採集カードにメモを取る老学者。辞書の紙作りに 苦労する人々。語意・語釈についての徹底的な探求、等等辞書作りという特殊な世界について、色々と学ぶことができる。だが、この作品の本質はそこではな い。読み終えた時に「心地良い作品だな」と、心の底から思えるのである。
人を評する時、「性格がきつい」、「優しい」、「お金にうるさい」等色々な表現があるだろう。しかし、時として「あの人は良い人だ」としか言いよ うのない人がいるものだ。その人と一緒にいるだけでこちらの心が温かくなるような存在。鋭角な部分がなく、柔らかく、優しく、ほのぼのとした空間を作り上 げてくれる人。『舟を編む』はそんな人に似ている。
もちろん気になる部分はある。心理描写の拙い恋愛模様、非現実的な主人公、松本先生の死に動揺する主人公馬締のステレオタイプな描写「感情と行動 がどうにもちぐはぐになり、うまく制御できない。」等が目に付く。しかし、そんな瑕疵を忘れさせてくれるような、さわやかな感動をこの作品は与えてくれ る。
馬締の妻となる、女性板前の香具矢が言う。「馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされる ことがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです」東日本大震災以来、今ほど私たちの思いを言語化することが重要 になっている時はないだろう。荒れて折れそうな心を和らげるために、言葉の重要性を今一度見つめるために、『舟を編む』は効果的な一冊である。
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