2009年05月26日
『手の美術史』森村泰昌(二玄社)
「手を描くこと、その手ごわい歴史」
カウンター席に座るときは、端っこの席が好きである。カウンターがカーブしている場合は、同じ端でもカーブしている先のシートがなおよい。カウンターの中 が見える。料理屋だったら、ネギを刻んだり、トンカツを切り分けたり、麺を茹で上げたりする手つきが、バーだったら、氷を割ったり、タンブラーでかき混ぜ ている様子を眺めるのが楽しい。人々が日々の作業としておこなっている手の動きは、無駄がなく、きびきびしていて、美しい。手仕事というと工芸的な仕事を思い浮かべがちだが、個人 商店に行けば、今でも手の作業を見ることができる。豆腐屋が水のなかから豆腐をすくい上げるときの手つき、肉屋が竹皮模様の紙に肉を包んでヒモでからげる ときの手さばきなど、いつ行っても見とれてしまう。
『手の美術史』は、こうした表情豊かな手の描写を、西洋絵画のなかに探り考察したものである。著者は絵画・映画の登場人物や、歴史的なヒローに、自ら扮してセルフポートレイト作品を作っている森村泰昌だ。
「手の誕生」から「手の解体」まで、手の歴史を8章にわたって追っていくが、どの章にも手の部分をトリミングした名画の図版がたくさん収められてい る。たとえば有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」では、謎の微笑を浮かべるあの顔を削除し、組んでいる両手だけをクローズアップして見せてい る。
これを見て、あっ、モナ・リザの手だ、と分かる人がどれほどいるだろう。少なくとも私にはわからなかった。巻末の掲載作品一覧と照合してはじめてこの手がそうか、と驚いたのである。
だれもが「モナ・リザ」の絵は知っている。モナ・リザがお腹の上で手を組んでいることも知っている。だが、その手のディテールがこんなふうになっているのを知っている人は、多くはないだろう。
よく手には年齢が出ると言われる。顔のほうはメイクでごまかせても、手はそれができないから、手を見ればどんなに若作りしてもバレてしまう。改めて 見るとモナ・リザの手は若い。ふっくらして初々しく、皮膚に張りと艶がある。落ち着きのある風貌なので、熟女のように思っていたが、案外、年若い女性なの かもしれない。
このように本書は、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた手を語ることから幕を開けるが、それは森村が絵画表現における「手」はダ・ヴィンチによって誕 生したと考えるからである。ダ・ヴィンチは「見た目」を描いただけではなく、解剖学の知識も動員して、手の描写に心血を注いだ。それは見えない宇宙を、目 に見える形に再構築させるのが絵画だ、と彼がとらえていたからだった。
もうひとり多くのページが割かれている画家がいる。ダ・ヴィンチより百年ほど後に活躍したカラヴァッジョである。手の描写の深さにおいて肩を並べるふたりだが、その手が示すものは正反対だった。
森村が指摘するように、ダ・ヴィンチの描く手は、人間の手でありながら、神々しさを感じさせるが、そうした聖性を秘めた「手」の対極にあるものを、カラヴァッジョは描いた。
少年がブドウの房を抱えている「病める少年バッコス」という絵がある。少年の顔が強い印象だが、それ以上に目を引きつけるのは、少年の肩から先の表 情だ。手先に力が集中しているのが、筋肉の盛り上がり具合からわかる。だが、握っているのはたった一房のブドウ。つぶれてしまわないかと心配になるほどの 強い集中力が、手先にむかって走っている。
また復活後のイエスの体の傷に、弟子のトマスが指を入れている「聖トマスの不信」も、絵の中心がトマスとイエスの指先に集まった、指こそが主人公と言えるような作品である。
トマスは十二弟子の中で、ひとりだけキリストの復活を目撃せず、「傷痕に指を入れてみるまで復活を信じない」と主張した。そんな彼の前にイエスが現れ、彼の手をぐいとつかんで自分の傷口に差し込んだ。そんな物々しいシーンがエネルギッシュに描かれている。
カラヴァッジョはダ・ヴィンチとちがって、人間的には問題の多い人だった。激昂しやすく、すぐに手が出てしまう。人をあやめて投獄されたことも一度 ではなかった。そんな人間に潜む闇の部分が、彼の「手」には凝縮されている。絵を描くのは手である。となれば、手こそが画家がもっとも感情移入しやすい部 分だろう。手を描いているときのカラヴァッジョの興奮した様子が目に浮かぶようだ。
最終章の「手の解体」では森村はこうこう書く。
「人間は「手」を持っている。このことが当たり前の時代から、からなずしも自明ではなくなってしまった時代に移ってゆく。そのプロセスが現代まで続いている。
ダリの描く「手」はもはや「手」ではない。人体であり、ある場合には岩石でもある」
近代絵画には、画家の個人的な想念が投入され、絵全体に作家の自我が貫かれている。手はあくまで全体を構成する一要素にすぎず、それ自体が何かを語 りかけてくることはあまりない。エゴン・シーレ、クリムト、ダリ、ピカソ、岡本太郎などの描いた「手」が取り上げられているが、どの「手」も作品の部分と いう印象が強い。
ひるがえって、ダ・ヴィンチやカラヴァッジョの手は、見つめるうちに印象が変化する。あたかも生身の人間の手を目前にしたように、さまざまなことを語りかけてくるのだ。
彼らの時代と現代とでは、手に込める人の思いが変化しているのだ。それは生活における手の位置が変容したことと無関係ではない。手を持っていることが「かならずしも自明ではなくなっている時代」に私たちはいる。絵画表現にはそうした現実が刻まれているのだ。
「手」だけを抜き出して西洋美術史をとらえ直すというのは、おそらく初めての試みだろう。それを実践したのが森村泰昌だったのはなぜだろうか。彼は美術家だが同時に写真家でもあって、デビューから現在に至るまで、写真によってすべての作品を作ってきた。
手だけをクローズアップする視線にはその彼の出自が感じられる。画家も絵の部分を凝視することはあるだろうが、実際に切り取って見せることは躊躇す るだろう。絵画は全体でひとつの世界を成しており、そこにハサミを入れることは一種の冒瀆である。そのタブーの意識に縛られて、画家にはしずらい行為のよ うに思う。森村のデビュー作品は、ゴッホの自画像に自らが入るというものだった。はじまりからタブーを無視していた彼には、ハサミを入れることなど、お手 のものだっただろう。
それより、なぜ手の描写に注目したかということのほうが興味深い。想像するに、絵の人物に扮するときに、もっとも苦労したのが手の演出だったのではないか。
はじめはただ形をまねればいいと思っていたことだろう。だが実際にやってみるとそうではなかった。形は合っていても何かがちがう。まね出来ない形も あったはずだ。そして手がうまくいかないと絵がばらばらになったり、まったく別物になったりして、魂が入らない。ごまかしのきかない「手」の手ごわさを、 しっかりと味わったにちがいない。
こうした体験を通して、目で観賞しているときには見えなかった、手にかける画家たちの情熱が見えてきたのではないか。自らの肉体を介することで手の意味が浮上し、その歴史的な使命すらもが明らかになったのだ。
「目は口ほどに物を言う」というが、手もまた口と同じくらい物を言うことがある。五本の指と甲の形、それにつながる腕の動きでさまざまな形を生み出す手は、動いていても、止まっていても、想像を刺激してやまない。
思えば、手を貸す、手を組む、手に負えない、手練手管、手間、手狭、手垢まみれ、あの手この手……と日本語には手のついた言葉が少なくない。辞書を 開けば、手の付いた言葉が何ページにもわたってつづいていて、手への慈しみと親しみ深さが伝わってくる。昔に比べれば手作業は減ったかもしれないが、手の おもしろさは不滅だ。最近では男子が編み物に熱中したりと、手作業への関心が高まりつつある。今後、もっと見直されてくるような予感がする。
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