2009年5月26日火曜日

asahi shohyo 書評

ハーンと八雲 [著]宇野邦一

[掲載]2009年5月24日

  • [評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■境界を行き来し自在に素描

 ハーンといえば、怪談などの再話を通して日本を世界に紹介した文学者小泉八雲として広く認識されている。しかし本書が提案するのは、「ハーンを少し〈日本〉から解放して読む」ことである。八雲はハーンという知的統合体の一部にすぎない。

 「私は群れだ!」と、ハーンは書く。数々の異なる顔をもち、ギリシャに生まれロンドン、マルティニクを経て日本に来るまでの間 に、ニューオーリンズで新聞記者として鳴らし(古くて新しいこのクレオール都市の肖像を「発明」したのも彼だと著者は指摘)、古今の英米、フランス、オリ エント文学をも渉猟し翻訳を行った。「私は群れ」とは、「現在のあらゆる生は、過去の無数の生の記憶を自分の中に含む」という意味なのだ。ハーンはユダ ヤ・キリスト教的な考えから次第に離れ、死者や黄泉(よみ)と現世を繋(つな)ぐ物語を紡ぎ、仏教の輪廻(りんね)とスペンサーの進化論を結合させた壮大 な生命哲学を築いていく。

 本書を読んで感ずるのは、死と闇の近傍を彷徨(さすら)うことに、ハーンの一見奇妙なエキゾティシズムの核心が現れているので は、ということだ。彼が魅入られたのは、ニューオーリンズでも日本でも、死につつあるゆかしき時代、「失われた楽園」である。ハーンは「完結と未完の間の 暗いらせん階段」を歩きながら、人間と自然の間の境界領域を、紀行文、料理本、小説など多彩な形式で自在に素描し、研究し、物語った。その日本論全体が 「ひとつのフィクション」とも呼びうる。彼にとって再話と創作と翻訳に確たる境はなく、どれも生と死の間を往還することに他ならなかったろう。

 ある仏作家は、耳慣れぬ日本語を聞いたとたん、言葉が自分に「手術を始めた」と言ったそうだが、それに倣えば、ハーンは全身に 隈(くま)なく異言語のメスを入れられた人である。その思想は一部だけでは矛盾さえ感じさせるが、本書を読むうちに、複雑に接がれた一個の体系が全容を現 し始める。境界上で揺れ続け、異質なもの同士の衝突を擁す「一貫した矛盾」こそが、ハーンだったとわかるのだ。

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 うの・くにいち 48年生まれ。立教大学教授(仏文学)。松江市出身。

表紙画像

ハーンと八雲

著者:宇野 邦一

出版社:角川春樹事務所   価格:¥ 1,890

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