2010年10月1日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年09月23日

『文豪はみんな、うつ』岩波明(幻冬舎)

文豪はみんな、うつ →bookwebで購入

「�いやな奴�を語る」

 「文豪はみんな、うつ」と言われたら、「そりゃ、そうでしょう」と間髪おかずに応じてしまいそうな気がする。小説家には精神的な鬱屈のイメージがよく似 合う。健康優良児で明朗快活な小説家なんて想像できない。しかし、問題はそこから先だ。そんなステレオタイプそのままのお題を掲げて、この著者はいったい どんな新しい話をしようというのか?

 そのあたりが気になって手に取った本書である。結論から言うと、あまり「新しい話」はなかったのだが、にもかかわらずけっこうおもしろく読んでしまった。

 ひと言で言えば、本書は近代文学の有名人をネタにしたゴシップ本である。姦通、病気、家系の秘密、成功と失敗、貧乏、絶望、死。扱われるのも漱 石、芥川、中也、藤村、太宰、川端など、いずれもフルネームで言わなくてもすぐ誰のことかわかるような作家である。みな、私生活にちょっと変わったところ のあった人ばかり。「うつ」の話題は必ずしも主役ではなく、作品にそれほど深入りするわけでもない。作家の生涯が、事件や隠された内幕や怨恨などに焦点を あてながら語られる。「やっぱり作家って変な人ばっかりですねえ」と言わんばかりの展開で、節操がないようにも見えるかもしれない。

 著者は精神科のお医者さん。たしかにタイトルに掲げられた「うつ」はどの作家についても話題にはのぼるが、必ずしもメインのテーマではなく症例は 統合失調症、不安神経症、強迫神経症、人格障害、パニック障害などさまざまである。というか、それまでおもしろそうに作家のスキャンダルを語っていた著者 が、急に真顔になって白衣をまとい「えへん」と咳払いをして、いかにも医者らしい症状分析に話を進める瞬間が各章にあるのだ。

教師としての賢治は生徒たちから慕われ、充実した毎日を過ごすことができたが、時おり奇妙な行動が散見している。月夜の晩にレ コードを聴きながら、空に向かって両手をはばたかせて踊ったり、ホホホホーと叫びながら走りまわったりする姿が当時を知る人によって語られている。こうし た行動は、賢治の気分が躁状態あるいは軽躁状態であったときに出現したものと考えられる。(114〜115)

「躁状態あるいは軽躁状態であったときに出現したものと考えられる」などと言われると、にわかに空気が変わる。たった今まで作家の生い立ちや名声の 確立や恋愛事件、裏切りなどを雄弁に語っていた著者の態度が一変し、「鬱」と「統合失調症」はどのあたりで似たような症状を示すのかとか、睡眠薬にはそれ ぞれ違う働きがあるのだといった話になる。突如、話が散文的になるのだ。

 そういう点、必ずしも器用な本とはいえない。「なるほど」と思わせるようなあざやかな議論の展開があるわけではなく、むしろ「あれ?」というタイ ミングで精神疾患の話に移る。しかし、作家と精神疾患の関係の不思議さについて考えるきっかけとしては、むしろこういう本の方がいいのではないかと筆者は 思った。

 あえて乱暴な言い方をする。私たちは作家に「狂気」を期待しているのだ。「天才と××は紙一重だからねえ」という井戸端会議(もしくは赤提灯)レ ベルのつぶやきからはじまって、私たちはどこかで「作家は狂っているべきだ」と思っている。しかし、「狂気」などという概念は、もはや公には消滅してい る。あるのは「症状」と「病名」だけなのである。にもかかわらず、私たちはかつて「狂気」という便利な言葉があらわしていた何かを作家やそして�文学�に 求めている。

 別に文学作品がいつも幻覚や不安や妄執を描いているわけではないのだ。でも、きっとその背後には「狂気」があるんじゃなかろうか?という妙な期待 のようなものがある。「狂気」を隠し持った作品こそが強い力で私たちに語りかけてくれるのではないか。表現とはそういうものであるべきのような気がしてい るのだ。しかし、ほんとうに不思議なのは、そういう私たちの�期待の構造�ではないかとも思う。おもしろおかしいスキャンダルをひとしきり語っておいて、 急に木訥で�マジ�な精神科医に豹変する著者のその変わり身についていきそこねたとき、そんな�期待の構造�をふと冷静に意識してしまう。

 とりわけ印象に残った章がある。もっとも力のこもった章で、本書中、唯一フルネームで呼ぶ必要のある作家を扱っている。島田清次郎という名を聞い たことのある人は少ないだろう。1899年(明治32年)の生まれで、20歳のときに出した自伝的小説『地上』がベストセラーとなり時代の寵児となった が、その後出版界から総スカンを食って作家生命を絶たれ、30歳のときに精神病院で亡くなった。

 この人は実におもしろい。ゴシップとしてもおもしろいが、それ以上に、こんな人がいたらたしかに自伝的小説を書かせたくなるだろうなという人物で ある。傲慢、嘘つき、鈍感、強引、思いこみ、自己愛……。島田というのは、およそ人に嫌われる要素をすべて備えていたかと思われるのだが、島田がある意味 ですごいのは誰もが多少は思い当たる節のあるこうしたプチッとした弱点を、フル装備でぜんぶ持っていた点である。まさに�ミスターいやな奴�。しかし、島 田の人生をたどっていくうちにそんな輝かしいほどの性格破綻ぶりも、「症状」へと収斂していくことになる。精神病院に収容され、自身の排泄物を外に投げつ けるというような段になると、もはや�ミスターいやな奴�ではすまなくなる。

 私たちはなぜ�島田清次郎�に小説を書かせ、ベストセラーにし、しかし、そのあげくに社会から抹殺し、のたれ死に同然の最期に至らしめてしまうの か。本書はそうした点を究明するものではないが、少なくともこの本を読んだ直後、あるいは数日後、あるいは数年後かに私たちはそのことについてあらためて 考えたくなるのではないだろうか。変人スキャンダルのおもしろおかしさと、症状についての散文的な記述の間に私たちが感じるギャップはいったい何なのだろ うか、と。漱石、太宰、谷崎といったお馴染みの「変人」の章は、ややおつきあいの感があるが、島田のような作家を扱うときの著者にはちょっとした迫力を感 じたのである。


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