2010年10月25日月曜日

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消えた正倉院宝物、1250年ぶりに確認 X線調査で

2010年10月25日19時8分

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写真:「陽寳劔」(奥)と陰寳劔。指で示す位置の裏側に象眼が施されていた=25日午後、奈良県生駒市、矢木隆晴撮影「陽寳劔」(奥)と陰寳劔。指で示す位置の裏側に象眼が施されていた=25日午後、奈良県生駒市、矢木隆晴撮影

写真:東大寺大仏殿から見つかった「陽寳劔」(左)と「陰寳劔」=25日午後、奈良県生駒市、矢木隆晴撮影東大寺大仏殿から見つかった「陽寳劔」(左)と「陰寳劔」=25日午後、奈良県生駒市、矢木隆晴撮影

写真:金銀荘大刀のX線写真。右の太刀に「陽劔」、左に「陰劔」の文字が見える=元興寺文化財研究所提供金銀荘大刀のX線写真。右の太刀に「陽劔」、左に「陰劔」の文字が見える=元興寺文化財研究所提供

写真:国家珍宝帳に記された刀剣の一覧(部分)。陽寳劔と陰寳劔の上に「除物」の付箋がはられている国家珍宝帳に記された刀剣の一覧(部分)。陽寳劔と陰寳劔の上に「除物」の付箋がはられている

図:  拡大  

 奈良・東大寺の大仏の足元から明治期に出土し、「東大寺金堂鎮壇具(こんどうちんだんぐ)」として国宝に指定された金銀荘大刀(きんぎんそうたち)2振 りが、約1250年にわたって行方が分からなかった正倉院宝物の大刀「陽寳劔(ようほうけん)」「陰寳劔(いんほうけん)」だったことが、元興寺(がんご うじ)文化財研究所(奈良市)の調査でわかり、研究所と東大寺が25日、発表した。

 「陽寳劔」「陰寳劔」は東大寺を創建した聖武(しょうむ)天皇(701〜756)の遺愛品で、妻の光明(こうみょう)皇后(701〜760)が大仏に献 納した後に持ち出され、行方不明となっていた。こうした「除物(じょもつ)」と呼ばれる品は七つあるが、存在が確認されたのは初めて。

 大刀は1907(明治40)年、大仏が座る蓮華(れんげ)座と須弥壇(しゅみだん)の境目付近の深さ約45センチの土中から見つかった。大仏殿(金堂) の永続を願って埋められた宝飾品「鎮壇具」と判断され、近くに埋まっていた別の大刀などと一緒に1930年に国宝に指定された。

 東大寺は今年度から2年がかりで、金堂鎮壇具の保存修理を研究所に依頼。X線調査で、長さ98.3センチの大刀(鉄製)の刀身の根元近くに1辺約1.5 センチの楷書(かいしょ)で「陽劔(ようけん)」、97.5センチの大刀(同)には「陰劔(いんけん)」と象眼(ぞうがん)が施されていたことが分かっ た。

 「陽寳劔」「陰寳劔」は756(天平勝宝8)年に光明皇后が大仏に献納した品々の目録「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」の刀剣類のトップに記されている。そこに書かれた長さや構造が今回の大刀と一致した。

 珍宝帳には「除物」の付箋(ふせん)があり、別の正倉院文書から759(天平宝字3)年12月26日に持ち出されたことがわかっていた。持ち出した人物について、古代史の専門家の間では、献納した光明皇后本人と考えられている。

 鎮壇具は仏堂の建立などに先だって埋めるのが通例。しかし、東大寺の大仏殿は、聖武天皇が存命中の751(天平勝宝3)年にほぼ完成していたのに対し、大刀が埋められたのは759年以降とみられることから、研究所は鎮壇具とは別の意味を持つ可能性が大きいとみている。

 また、金堂鎮壇具のX線調査の結果、別の銀荘大刀1振り(長さ62.4センチ)の刀身から、北斗七星の文様が見つかった。邪気を払う意味を持つ刀とみられるが、除物にはなく、ほかの正倉院の文書にも該当する大刀の記述が見つからないという。(編集委員・小滝ちひろ





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