2010年10月9日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年10月08日

『知覚と感性の心理学』三浦佳世(岩波書店)

知覚と感性の心理学 →bookwebで購入

「出来損ないの領域」

 文学作品の文章をねちねち分析していると、「君たちのやっているのは認知科学や認知言語学のできそこないみたいなもんだよ」と言われることがある。たし かにそうなのだ。同じ文学作品を扱うのでも、いわゆる�認知�と呼ばれる系統の人たちのものはとてもきちっとしていて、厳密で、科学的に見える。それに対 し�文学�系の人たちのものは、自己流で、行き当たりばったりで、ときには妙におもしろおかしくて、いかがわしいのである。とてもまじめにやっているとは 思えない。

 そんなわけで同じ対象を扱うことがありながら、文学系の研究者と、下手をするとノーベル賞さえとるかもしれない認知系の研究者との間にはちょっと した隔たりがあり、両者の交流もそれほど盛んとは言えない。もっと両者の垣根が低くなればおもしろい発見もあるだろうに、と思う。

 今回とりあげる『知覚と感性の心理学』は、フィールドは�認知�というよりは心理学かもしれないが、まさに今言ったような「垣根」の部分の探究を しようという気概にあふれた入門書である。このタイトルだと文学好きはまず手に取らないと思うが、だまされたと思って頁をめくって欲しい。芸術系の人たち が寄りかかっている「感性」という概念について、真っ向勝負というのか、愚直なほどに素朴な疑問を立てたうえで、実に柔軟に「その次」の問いにつなげてい く。

 本書の中でもっと刺激的だったのは、「よいとは何か」と題された第五章である。たとえば「コーヒーカップを描いてみてください」とお願いしたとし よう。多くの人は、あの典型的なコーヒーカップを描くのである。すなわち、ちょっと上から見下ろすことで凹みが見え、右側(いつも右側なのだ!)に取っ手 がついている。そしてソーサー。いかにもコーヒーカップらしい絵なのである。こういうものをプロトタイプと呼ぶ。

 このような絵がプロトタイプとなるのは、それが「よい」と判断されるからである。では、いったいどこが「よい」のか? ひとつの答えは「その視点 からの眺めに接した経験が多い」からというものだ(p.109)。たしかにそうかもしれない。でも、より有力と思えるのは、その視点からの眺めが「もっと も多くの情報を含んだもの」だからという説である(同)。

 このコーヒーカップ問題には必ずしもかちっとした�正解�が出されるわけではないのだが、ここで「情報量」という概念が浮上したことに意味があ る。この「情報量」という概念を足がかりにすると、たとえばいくつかの円を組み合わせたパターンの中でどれが「よい」と判断されるか、というような問題を 考えるときにぐっと話が前に進みやすくなる。どうやら人は、パターンの中でも反転させたり回転させたりしたときに、元の形とあまり変わらない形になるよう なパターンを「よい」と判断する傾向があるらしい。これを説明するのに三浦は次のような言い方をする。

たしかに変換に対して頑強であることは、4-5節で示したような観察者中心の座標系から物体中心の座標系に変換するにも負荷が少 なくてすむ。処理自体に費やす心的資源(mental resource)が少なくてすむパターンをよいと考えることは、より少ないエネルギーで安定した体制化を可能にする図形をよいとしたゲシュタルト心理学 の考え方とも一致する。(p.112)

 ぐっと視界が開けてきた感じがする。しかも三浦はここでさらにランダムネス(randomness)とかフラクタル(fractal)いった概念 を導き込むことで、単なる情報量の多寡の問題から、情報の拡散や混沌や混乱といった、まさに文学や芸術ともろにつながる問題へと話を広げる。ジャクソン・ ポロックのアクション・ペインティングや竜安寺の石庭などの具体例を上手に使いながら、「情報」との格闘の中で私たちが何を「よい」と判断するかというき わめておもしろい問題が、わかりやすく説明されるのである。いや、説明というより、何が問題なのかを私たちに実感させてくれると言ったほうがいい。

 こうして見てくるとあらためて思うのは、このような入門書の魅力が術語の扱いと大きくかかわっているということである。いたずらに「科学風」を装 うものは、議論の中で十分に消化されないまま専門用語を次々に繰り出すだけに終わる。用語をむしろ乱造し、壁面ばかりで窓も入り口のないような議論をこし らえる。(まるでできそこないの観念小説のように!)これに対し、本書のように魅力的な入門書では、新しく術語が登場するたびに読者は�発見�を体験する のである。「ああ、そうか。そんなふうに名付けると、いろいろおもしろいものが見えてくるね♪」と。

 たしかに本書をざっとめくるだけでも、「感性研究」にはじまり魅力的な名付けの瞬間がタイミングよく出てくる。耳慣れない、ちょっと怪しげで、で も何だろう?と期待させる言葉の数々——「演色性」、「錯視作家」、「興奮色」、「誘目性」、「線運動錯視」、「因果知覚」、「共同運命」、「直感物理 学」、「滝の錯視」、「知覚の外在性」、「視覚的残骸」、「透明視」、「頭足人間」、「実験美学」、「精神物理学」、「カクテルパーティ問題」、「知覚循 環」などなど。ちなみに筆者にとっての最大ヒットは「精神物理学」である。なんという怪しさ!

 本書は第一章の「色」からはじまり第二章「動き」、第三章「奥行き」、第四章「形」というふうに、まずは「知覚」を科学的にとらえるための基礎を 整えるような構成になっている。この部分も十分読みごたえはあるのだが、五章以降、いよいよ「感性」の領域に踏みこんだときの良い意味での淡々とした語り 口(この辺が文学の人との違いか!)にどきどきさせるような種がたくさん埋め込まれている。「錯視作家」なんていうものが存在することを知るとやや驚きも するが、考えてみるとこの当の三浦さんも含め、みんな錬金術師の末裔かもしれないのだ。


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