2010年10月12日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年10月05日

『一〇〇年前の女の子』船曳由美(講談社)

一〇〇年前の女の子 →bookwebで購入

「少女の目で描いた一〇〇年前の村落共同体の暮らし」

この本のことはある編集者の方から贈っていただいて知った。著者・船曳由美さんは自分の先輩格に当たる方でその仕事ぶりを常日ごろ尊敬している、その彼女 がこのたびこのような本を出した、自分の母の時代と思い合わせて興味深く読んだのでお送りした、という私信が添えられていた。ふだんわたしが手にとる本と は少し雰囲気がちがうので、贈られなければ気づかなかったかもしれない。

一読していい本に出会えたことを感謝した。と同時にこれをだれかに読んでもらいたくなり、年長の友人に推薦した。読書好きの彼女は即座に読んで、亡 くなった母とこの本の話しをしたかった、まわりにもこの本のことを触れまわった、と伝えてきた。心強くなってつぎはうちの母に勧めてみた。歳とってなかな か読書が思うように進まないと日頃嘆いているので、負担を増やしてはいけないと躊躇していたが、思いがけない早さで読み終え、「あの本とてもおもしろかっ た!」と連絡してきた。本はいま母の妹のところをまわっているらしい。

物語の主人公、寺崎テイは著者の母である。明治四十二年生まれで百歳になる。母の思い出をつづるのでなく、母から聞き出した少女時代の記憶を母に成 り代わって語っているところに本書の成功の理由がある。明治から大正を生きた少女が普遍的な人物像になるのに適切な距離がそれによって作られている。読ん でいるとしきりと自分のそばにいたあの人、この人のことが思いだされてくるのはそのためだ。

雷鳴とともに生まれたテイはカミナリさまの申し子と言われた。顔は男の子のようでかわいくなく、しかも強情だった。小言を言われても歯をくいしば り、涙をいっぱいためて上目遣いで見る。生まれついての性格もあるが、生い立ちがさらにそれを鍛え上げた。テイは生みの親を知らない。姑ヤスと小姑があま りになんでも出来る人だったのに怖じ気づき、生みの親は実家で出産後に赤ん坊だけを寺崎家に送り届け、自分はそのまま実家に留まったのである。テイは寺崎 のヤスばあさんにおぶわれてもらい乳をして生きのび、5歳のときに養女にやられた。

その後、父のはからいで寺崎家に帰してもらったが、養女に出された寂しさはテイに一生ついてまわった。泣き言をいわない我慢強い子に育ったのもまた 養女に出されては大変だという気遣いがあったからだ。父は後妻をもらい子供も生まれて新しい一家が出来ており、テイは家のなかでどこか宙ぶらりんの存在 だった。

そのテイを気にかけかわいがってくれたのはヤスばあさんである。嫁がおそれをなすほど見事になんでもこなす才女の彼女は、夫を亡くして家族の重鎮と して一家を切り盛りしていた。ヤスばあさんのふるまいや語り口は読みごたえがある。ただ気丈なだけではない心の広い人で、農村の暮らしを健全に保っていた のはこういう人物だったのだろうと思わせる。

おばあさんはお盆の墓参りのあとは決して後ろを振り返ってはいけないとさとした。墓石のうしろには供えた食べ物をさらっていく者がいる。村人ではな く、貧しい女たちが団子や供え物を子どもに持っていくのだ。顔を見られたくないだろうから振り返るな、というわけで、貧しき者や別の価値世界に生きる者へ の想像力をもっていた。

物ごいのことは「お乞食さま」と「お」のうえにさらに「さま」を付けて呼んだ。何か理由があって神さまが身をやつして村をたずねているのかもしれな い、どんなに汚い身なりをしている者でもバカにしてはいけない、そうヤスばあさんは教える。わたしの祖母や母も「お乞食さま」と呼んでいたから耳に懐かし い言葉だが、神さまの化身だという説明を聞かされたことはなく、子ども心に丁寧すぎて慇懃無礼な感じがした。都市の宿命だろう。背景が消えて言葉がひとり 歩きし発祥の意味がわからなくなるのだ。

栗の山分けの話にもヤスばあさんらしくていい。栗が実るとみんなで拾って大釜で茹で上げる。その栗をおばあさんが家族の人数分の山にわけ、じゃんけ んで勝ったものから好きな山を選んでいく。後妻のイワかあさんが子ども思いで自分の分を少しやろうとすると、ヤスばあさんはだめだと遮る。おとなも子ども も、女も男も同じ量の栗をもらって楽しむのが栗わけの意味なのだと。生活のなかでどうしても生じてしまう偏りはこのようにして是正されたのかと思った。

テイの目の高さで語られる季節の行事は描写が細かく具体的だ。著者の考えがここにはっきりと出ている。地方の民族博物館にいくといろいろな民具が展 示されているが、いまとなってはどういうふうに使うのかまったくわからないものも多い。たとえば枠が鉄製で底に紙が貼ってある四角い箱が展示されていたと する。名札には「焙炉」とあり、茶葉を煎るのに使うと書かれている。ただそれだけで関心を抱くのはむずかしい。でももし以下のような文章を読んでいれば、 たちどころに「あれだ!」と気がついて興味がわくのではないだろうか。

「カンカンに火を熾した炉の上に何本も細い鉄の棒をかけわたし、さらに台を置き、その上に焙炉をかける。炉よりも二回りほど小さな四角い箱で、枠が 鉄で、底に紙が貼ってある。昔の大福帳の反古とか、破れた障子紙とや古い手紙などを何枚も何枚も貼り合わせたものだ。新聞紙はダメである。だから、和紙は どんな小さな切れっぱしでも大切に箱に入れて蔵にしまっておいたものだ」

茶畑で摘んできた茶っ葉は蒸し上げたあとにその焙炉にざっとあける。熱々の葉っぱから甘い匂いが立ち上る。焙炉の紙が焦げれば和紙を貼り継ぐ。煎っ た葉は手で揉み上げてお茶に仕上げていく。この作業は男の仕事と決まっている。「熱さとの闘いがよいお茶をつくる」。できた新茶はまず親戚に届ける。村の 中でも茶畑のある家は少なく、心待ちにている家も多く前々から空の茶筒が来ている。近所の家には子どもたちが届けるが、「新しいお茶がデキマシタァ」と大 声で言って戸口に立つのは晴れがましい気持ちだ。そしてすべてが終わるとヤスばあさんは座敷でひとりお茶をいれてゆっくりと味わう。「おお、今年もよく出 来た……」。
茶摘みのシーンからここまでがひとつながりの映像のように描かれ、出来立てのお茶の香りすらもにおいたつようだ。

狭い人間関係のなかで物事が比較され、価値づけられる村落共同体にはいいことづくめではないだろう。噂が飛びかい、ねたみそねみが生じる。生まれ落 ちた家や階級にも縛られ、それ以外の生き方は選べない。テイの生みの母親が里からもどってこなかったのも共同体のもつ窮屈さと無関係ではないだろう。だ が、それはおとなの感じる苦労であり、子どもにとっては共同体はすべてのはじまりだ。人への接し方、しぐさ、礼儀、ものを判断する力、価値観、道具の扱 い、作業のこつなど、生きるのに必要なすべてことが白紙状態の心に染み込んでいく。世の中にいろいろな人間のいることも、子どものうちから自然と悟る。

田畑を持たない人は手の欲しい家の農作業を手伝って食事と日銭を得ていた。日傭取りという。寺崎家に来るコウさんもそのひとりで、彼は河原に掘っ建 て小屋をたてて住んでいた。そこしか住む場所がないからではなく、川の音を聞いて眠るのが好きなのだ。コウさんと奥さんの手に寺崎家は助けられ、彼らはそ のおかげで好きな河辺の生活をできている。そんなところで寝るのがいやな人もいるだろうし、みんなが川音に心落ち着くわけではないが、そういう人もいると いうことだ。

火の用心の照やんも別の価値世界に生きている人だ。12月から3月半ばまで照やんは一日もかかさず拍子木を打って村の一軒一軒夜回りする。嵐でも雪 でも止めない。夜回りが終わる季節になると村では彼に渡す金を集める。一部を照やんの女房に、残りは彼に渡す。そして照やんはその金をもってなんと福居の 遊廓に直行するのだ。しかも金が尽きるまでそこに居つづける。

「この春の福居の廓があるから、一年間、働けるんだよゥ」とコウさんはいうが、宵越しの金は持たないとばかりにパッと使ってしまう夫を、毎晩炬燵を 暖めて帰りを待っていた女房は一言も非難しない。照やんの夜回りを村人たちは「だれにも出来ることではない」と感謝しているが、この夫婦の生き方もだれも ができるものではない。またまねする必要もない。ただそういう夫婦もいるということだ。

人間にはいろいろな人がいて、ひとつの生き方でくくることはできない。それぞれが自分に合った生き方を選んでいい。このあたり前のことを実行しにく い世の中である。頭ではわかっていても、現実の場面になると動揺することも少なくない。家族のなかに世間が認める生き方のできない人が出たときの緊迫した ムードにはだれもが覚えがあるだろう。はぐれ者を受け入れる寛大さは村落共同体のほうがあった。それにははぐれ者を認めてサポートする一族がいなければな らなかった。ヤスばあさんはコウさんのごはんを炊くときに、「カマの底を見せてはならねえゾ」と嫁に言ったが、それは「オレが食いすぎた」と彼が要らぬ心 配をせぬようたっぷりととぎなさいという意味だった。

細かい気配りのできる寺崎家のような家があって共同体はよきものとして存続したのである。村人の心の安定は要となる一族がいる村といない村では大き くちがったはずだ。百歳のテイはヤスばあさんの公正な目が光っていたころの共同体の光景を語っている。それは成長して村を出た彼女の少女時代の記憶でもあ るのだ。


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