山口昌男の歩み 今福龍太さんが選ぶ本
[掲載]2013年03月24日
|
■真摯で快楽的な学びへの窓
いまあらたに、山口昌男という真に独創的な人類学者=思想家の知 の歩みを、その著作を通じてたどること——それは魅力的で挑戦的な行為である。なぜなら、山口の著作は、私たちがつい陥りがちな「思考の惰性」を根底から ゆるがし、世界や人間をめぐる事象を未知の景観のなかに置き直す、挑発的なアクチュアリティをいまだ鋭く抱えているからである。
「中心と周縁」 「トリックスター」「両義性」といった、一九七○年代の学問・思想界の固有の文脈のなかで山口によって人口に膾炙(かいしゃ)することになった理論的概念 を、過剰に意識する必要はもはやないだろう。そうした戦略概念だけが通俗的に理解されたまま独り歩きしたために、山口人類学のより本質的な方法論や独創性 がかえって見えなくなってしまった嫌いもあるからである。
■知の発見法提示
なによりもま ず、山口の著作は私たちにとっての一つの刺戟的(しげきてき)な「知の発見法」としてある。厳格に構築された気難しい「学問」を、より自由で俊敏な「知」 の軽快な運動へと解放する彼の発見法のエッセンスは、『山口昌男著作集』の第一巻「知」に収録されている代表作「本の神話学」において余すところなく語ら れている。本は思考のためのたんなる「資料」や「文献」ではない。書物とのあいだにまず情動的・身体的な関係をうちたて、書物のなかに宿された躍動的な 「生命」を受けとめ、そこから日常的な知性のはたらきを自前の感受性によって組織化してゆくことこそ重要だ。
「本の神話学」で取りあげられる精 神史、亡命、政治と芸能、蒐集(しゅうしゅう)と物語といった主題は、すべてこの発見法的な知の実践へのじつにユニークないざないである。そこには、学問 が惰性的に寄りかかる「専門」という強迫観念はない。学問制度のなかで形式的に囲い込まれただけの「専門」なる概念が、知の全面的な展開にとっていかに不 自由な足かせになっているかを、それはじつに見事に暴き出してくれる。
『道化の民俗学』もまた、イタリアの仮面劇におけるアルレッキーノやアフ リカ部族社会の神話における道化神などの詳細な分析を通じて、社会における「知識人」なるものの創造的なあり方について考察した渾身(こんしん)の力作で ある。ここで縦横に論じられた「道化」とは、きまじめな社会にたいしておどけた振る舞いを仕掛けるだけの愚者ではない。むしろ反対に、道化とは世の中が愚 行の塊にすぎないことを悟ってしまった裏返しの賢者であり、だからこそ世界を縛りあげるすべての物事から自由でいられる。その意味で、道化は「批評」の もっとも洗練された形態なのである。そして山口自身が、そうした道化的知識人へとたえず自己変容しようとした。
■「危機」に対峙も
「文化学」への入門講義として行われた『学問の春』は、オランダの文化史家ホイジンガの名著『ホモ・ルーデンス』(遊戯人)の解読を手がかりに、道化的な 批評性を武器にして、社会の「危機」にどのように対峙(たいじ)すべきかを説いた山口の最後の著作である。こうした語りは、意を決して、山口の知の細やか な息づかいまでもが聞きとれる、学びの「最前列」で聴くべきだ。そのような、真摯(しんし)で快楽的な学びを強く求める者すべてに、山口昌男の著作はひと しく開かれている。
◇
いまふく・りゅうた 東京外国語大学教授(文化人類学) 55年生まれ。『群島—世界論』『レヴィ=ストロース 夜と音楽』ほか。
0 件のコメント:
コメントを投稿