2013年3月1日金曜日

asahi shohyo 書評

リトル・ピープルの時代 [著]宇野常寛

[評者]大澤真幸(社会学者)

[掲載] 2013年02月22日

表紙画像 著者:宇野常寛  出版社:幻冬舎 価格:¥ 2,310

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■ビッグ・ブラザーが「壊死」した後の現実

 本書は、現代社会における「父的なるもの」の変化を、主としてサブカルチャーの領域に現れている物語的な想像力の変遷を追うことで証明したものである。その変化を一口で言えば、「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」ということになる。
 かなり大部な本、というより、饒舌(じょうぜつ)な本という印象を与える。ただし、抜群におもしろいのでその饒舌は苦にならない。

*壁と卵

  冒頭で、村上春樹が2009年2月のエルサレム賞受賞時に発したスピーチへの違和感が記される。固い壁があって、それにぶつかって壊れる卵があるとした ら、自分は、正しい/正しくないとは関係なしに、断固として卵の側につく、と語ったあのスピーチである。「壁」というのは、何らかの抑圧的な社会システ ム、「卵」はそれに反抗する者たちのイメージであろう。
 だが、と宇野常寛は疑問を提起する。村上春樹がもともと抵抗してきたのは、壁と卵とを截然(せつぜん)と区切り、自分は卵の側だと無邪気に信じこむ想像力の欠如だったはずではないか、と。ここで「壁」と「父的なるもの」は同じことを指している。
  宇野によれば、かつては、もっと厳密に言えば1968年までは、「壁」はオーウェルが『一九八四』で描いた「ビッグ・ブラザー」のようなものであった。そ れは、外部の超越的な水準から人々を抑圧する疑似人格的なものであり、イデオロギーとしては「大きな物語」、組織としては「国家」に対応していた。
  だがビッグ・ブラザーは、日本で言えば95年のオウム真理教事件までの間に、世界で言えば01年の9・11テロまでの間に、解体してしまう。それ以降は、 社会はビッグ・ブラザー的な外部をもたない、貨幣と情報のグローバルなネットワークによって成るシステムであり、誰もそこから逃れることはできない。
  このとき個人は、それぞれ独断的に自分なりの善、自分が好む「小さな物語」を選ぶしかない。つまり、誰もが「小さな父」になるしかない。その小さな父の別 名が「リトル・ピープル」である。したがって、父(壁)に対して卵として外から対抗することは、もはや問題となりえない。いかにして、多くのリトル・ピー プルが共存しうるかが課題である。
 本書の中心的な主張を要約すれば、以上のようになる。つまり、本書の目的は、リトル・ピープルとしての「壁」 のイメージを獲得することにある。「リトル・ピープル」は、もちろん、村上春樹が『1Q84』で提起した悪のイメージである。にもかかわらず、エルサレ ム・スピーチに宇野が納得できないものを感じたのは、このスピーチで「壁」が「ビッグ・ブラザー」のように語られていたからだ。

*村上春樹のふたつの層

 本書のおもしろい部分を、流れにそって、もう少していねいに拾っておこう。本文は、3章で構成されている。
 第1章は村上春樹論である。この章で春樹の歩みを全体として眺めながら、彼がビッグ・ブラザーの死ということにいかに正しく反応したかということ、しかし、リトル・ピーブルへの反抗という点でどのように失敗しているかということ、この2点がていねいに論証される。
  村上春樹の作品の中で、特に重視されているのが1985年に発表された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』であり、その解釈はたいへん説得力 がある。長編第4作にあたる同作品は、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」というふたつの物語を同時並行的に展開し、最後に両者を収束さ せる構造になっている。
 ビッグ・ブラザーが解体し、「悪」が消滅しかけているとすれば、「正義」も消滅する。そうなれば、現実へのコミットメン ト(正義の執行)を断念し、内面に引きこもる(ナルシシズムを記述する)ことだけが、正義らしきものになる。この立場を表現しているのが「世界の終り」の 方である。
 それに対して、ビッグ・ブラザーの死の後に新しい「悪」を仮定し、現実にコミットするという立場もある。だが、この「悪」の仮定は根 拠なき独断だから、自分以外の誰かと共有することを期待できない。ゆえに、その無根拠にタフな精神で耐える必要がある。この立場を描くのが「ハードボイル ド・ワンダーランド」だ。
 宇野の見立てでは、村上春樹は、前者(「世界の終り」)の側面では成功しているが、後者(「ハードボイルド・ワンダーランド」)の側面に関しては、その後の作品においても、今のところ成功していない。

*ウルトラマンと仮面ライダー

  ウルトラマン・シリーズと仮面ライダー・シリーズについて論じた第2章は、最も長い章であり、本書の圧巻だ。が、正直に言えば、私は、あまりに詳しくさま ざまな仮面ライダーについて解説されていて、いくぶん食傷気味になった。つまらなかったから、ではない。逆である。むしろおもしろすぎるのだ。毎食、すき 焼きを食べているような気分になる。言い換えれば、めちゃくちゃすき焼き(仮面ライダー)が好きならば、この章は、ほんとうに堪(こた)えられないだろ う。
 いずれにせよ、この章の結論は、シンプルで力強い。同じヒーローでも、外宇宙から到来する超越者ウルトラマンはビッグ・ブラザーで、仮面ラ イダーはリトル・ブラザーだ、と。実際、身体のサイズだけ見ても、ウルトラマンはビッグで、仮面ライダーはリトル(人間と同じ)である。
 宇野に よれば、仮面ライダーの「リトル・ブラザー」としての側面がはっきりと現れるのが、平成「仮面ライダー」シリーズの第3作にあたる『仮面ライダー龍騎』 (2002〜03年)である。この話には、ヒーローが戦うべき「悪」が存在しない。これは、13人の仮面ライダーが互いに殺し合う物語なのだ。つまり、 13通りの「正義」、13通りの勝手な物語があるだけである。全体を律する単一の普遍的な正義が存在しないため、彼らは互いに殺し合うしかない。

*拡張現実の時代

  第3章では、リトル・ピープルの時代が、あらためて「拡張現実の時代」として捉え直されている。「拡張現実の時代」という時代区分を提起するにあたって、 宇野は、評者である私の議論をも参照している。東浩紀が「動物の時代」、大澤が「不可能性の時代」と呼んだ段階を、宇野は「拡張現実の時代」と呼ぶのだ、 と。
 三者は、90年代後半から、新しい時代に入ったという認識において共通しているが、その新しい時代に与えた名前が異なっている。名前が違うのは、その時代の性格づけが異なっているからである。
  「拡張現実」とは、次のような意味である。かつては、つまり「虚構の時代」(1970年ごろ〜95年)においては、失われた「大きな物語」を埋め合わせる ために、〈ここではない、どこか〉に、人を誘惑する「仮想現実」が捏造(ねつぞう)された。しかし、そんな〈外部〉が存在しないことが明白になった今日に おいては、〈反現実〉は、〈いま、ここ〉の現実のすぐ隣に、現実を延長するものとして、現実の多重化として構想される。そのような現実を多重化する〈反現 実〉が、〈拡張現実〉である。
 たとえば、美少女アニメの中で忠実にトレースされて取り入れられた、実在の都市のある街や風景が、熱心なファンによって「聖地」と見なされ、そこへの巡礼が流行したことがある。このとき、現実の都市の意味が重層化している。これが拡張現実の典型である。
  あるいは、インターネット上の「n次創作」。コミュニケーションという現実の延長上に、キャラクター(の生成)という虚構があり、これも拡張現実だとされ る。宇野によれば、さらに、リストカットのような自傷行為も、自己像を多重化するもので、拡張現実を目指す行為のひとつである。
 今日、システム の外部にいるグループや党が主導権を握り、民衆を教導して引き起こす革命など、不可能である。宇野は、拡張現実的な想像力に期待しているようだ。ハッカー たちがシステムの内部に侵入して、それを書き換えてしまうように、世界の中に潜って、それを(拡張現実的に)解釈し直すことで、世界を変えることができる だろう、と。
 私としては、「不可能性の時代」という観点から、「拡張現実」という現象を捉え返すことができると考えている。しかし、書評の範囲 を越えてしまうので、この点を詳しく論ずるのは、別の機会にゆずることにしよう。いずれにせよ、自分が提起した概念が(批判的に)継承されているのを読む のは、たいへん愉快である。

*アメリカ映画でも確認

 以上の本文に続いて、3本の「補論」が付いている。読者には、ぜひとも読むように勧めたい。いずれもおもしろい。
  中でも、バットマンシリーズのひとつで大ヒットした『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督、2008年)を論じた「補論1」は秀逸である。これ によって、「アメリカの正義」の終焉(しゅうえん)はビッグ・ブラザーの終わりを意味しており、この映画はその後の「リトル・ピープルの時代」を描いてい ることが示される。
 宇野によると、『ダークナイト』において自己目的化した純粋な悪を代表しているジョーカーは、『仮面ライダー龍騎』に登場する13人の仮面ライダーのひとり、「仮面ライダー王蛇」と正確に対応している。
 このように、「リトル・ピーブルの時代」という時代診断は、アメリカ文化を題材にしても確認されるのだ。

*なぜ「壊死」なのか

  最後に、気になる表現について記しておこう。本書では、実は、ビッグ・ブラザーの解体に関して、独特の語彙(ごい)が用いられている。ビッグ・ブラザーは 壊死(えし)した、と。「死んだ」ではなく、「壊死」である。まして「消滅した」といった抽象的な表現ではない。どうして、壊死なのか?
 これは、本質とは関係がない、ただの比喩の問題に過ぎない、と考えてはならない。たとえば、ニーチェが「神は死んだ」ではなく、「神は壊死した」と言っていたと想像してみるとよい。それは、「死んだ」とは明らかに異なった含意をもつだろう。
 「壊死」という生々しい語を用いているとき、宇野には、ビッグ・ブラザーが解体され、消滅に向かっていく過程に関して、何らかの具体的なイメージがあるはずだ。それが何であるかは、しかし、論じられてはいない。
  こんなことを私が書いているのには、実は、意図がある。今回、この本をこの欄で取り上げようと思った理由でもあるのだが、私がこの2月に出したばかりの 『生権力の思想』(ちくま新書)で扱っている現象と、宇野が本書で論じている現象とは、ぴったりと重なるのだ。私は、ミシェル・フーコーの「生権力  biopouvoir」という概念を使って、その現代的な変容について論じた。私が描いた生権力の変容を、宇野の言葉に翻訳すれば、まさにビッグ・ブラ ザーからリトル・ピープルへの転換ということになる。
 ただ、私の関心の中心は、変容を描写することではなく、その変容のメカニズムを解明するこ とにあった。なぜ、ビッグ・ブラザーは「壊死」したのか? ビッグ・ブラザーは、どのように死んでいったのか? 死んだビッグ・ブラザーは、どうしてリト ル・ピーブルとして再生するのか? こうしたことが私の問いであった。
 私よりちょうど20歳若い有能な批評家の論考が、私の探究と、車の両輪のように連動しているのを感じる。これはワクワクするような体験である。

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