2013年3月30日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年03月25日

『小商いのすすめ―「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』平川克美(ミシマ社)

小商いのすすめ―「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ →bookwebで購入

「経済成長」と「縮小均衡」

 私は1960年代から70年代の初めにかけて10歳までの子供時代を過ごした世代なので、まさに高度経済成長時代の申し子といってもよい。一昨年、総合 雑誌『中央公論』が「私が選ぶ『昭和の言葉』」という特集を組んだとき、私も何か書いてほしいと依頼されたのだが、正直に最初に脳裏に浮かんだ「昭和元 禄」という言葉を選んだ。短い文章なので、それを最初に読んでもらうことにしよう。

「私が生まれたのは、昭和37(1962)年である。日本が『高度成長の時代』を突っ走っていた頃と言ってもよい。私の専門は経済学だが、私よりも もっと上の世代のなかには、河上肇の『貧乏物語』(1917年)を読んで社会意識に目覚め、経済学を志したという碩学が少なくない。残念ながら、私にはそ れに似たような経験はない。幼い頃の思い出のなかで今でも鮮明に記憶に残っているのは、両親や兄弟と一緒に東海道新幹線(昭和三九年開通)に乗って上京 し、東京タワーや霞ヶ関ビルの一番上にのぼり、そのあと銀座の歩行者天国で楽しいひとときを過ごしたことである。家族で旅行することはよくあったが、東京 タワーの上から眺めた東京の街は格別であった。しかし、『高度成長の時代』でなければ、そもそも私たちの家族旅行はあり得なかった。
 長じて、経済学を勉強するようになってから、実は、『高度成長の時代』にも、水俣病に代表される公害(環境破壊)などの『影』の側面があり、ある段階ま で、政府も国民もその問題をそれほど深刻に考えなかったことを知った。それでも、現在でも、私たちは、『高度成長の時代』の思考法から決して抜け切っては いない。それは、四半期ごとに発表されるGDPの指標にいまだに一喜一憂していることからも明らかである。GNPやGDP至上主義への疑問は、古くはE・ ミシャンや都留重人から現代のアマルティア・センに至るまで、何度も表明されてきたので、『脱成長』時代の経済システムの再構築にとうにとりかかっている べきなのだが、いまだに成長路線への復帰こそが増収をもたらすので、消費税の増税は必要ないという論説が一部に受けがよいようである。一度みた夢は忘れら れないものなのか、そんなとき、天下太平の時代を見事に表現した福田赳夫の『昭和元禄』という言葉を思い起こすが、当の福田は安定成長論者として池田勇人 と対立したというのだから皮肉なものである。」(『中央公論』2011年6月号、163ページ)

 私よりもっと上の世代は、それこそ悲惨な戦争時代を思い起こさせるような言葉を選んでいる人たちもいたが、物書きとして嘘は書けないので、正直に 上のような文章を書いた。もちろん、これを読んでもらえばわかるように、私も現在が高度成長時代の思考法から完全に抜け出すべき時期に来ていることは頭の 中ではわかっているつもりである。だが、自分が完全に抜け出したかというとあまり自信はない。育った環境から完全に無縁でいられることなど、もともと無理 な話かもしれない。
 しかし、2011年の東日本大震災は、「最後の一撃」のごとく経済成長至上主義に引導を渡したように思えた。平川克美氏の『小商いのすすめ―「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』(ミシマ社、2012年)も、大震災の衝撃を受ける形で公刊された一冊である(誤解を招かないように付け加えると、平川氏は以前から経済成長至上主義に対する疑問を表明してきた一人である)。「小商い」の正確な意味は当初は不明だが、読み進むうちに明らかになってくる1。
 日本がまだ貧しかった頃、日本はまだ「死に物狂いになる野生」を十分にもっており、「拡大均衡」が可能であった。しかし、日本は、高度成長の結果、富を 得て野生を失い、経済成長のための条件を失いつつある――これが、簡単にいえば、平川氏の基本的な視点である。ところが、高度成長時代に身についてしまっ た思考法(「経済成長神話」といっても「経済成長至上主義」といっても同じだが)は、いまだに経済界やエコノミストのあいだに根強い。平川氏は、そのよう な「強迫観念」の実態を次のように表現する。

 「こういった経済成長によってしか、社会の安定や、個人の幸福や、国家の威信というものを思い描くことができない知性にとっては、社会の安定や個 人の幸福、そして国家の威信とは、お金で買える程度のものでしかありません。実際にはそのどれもがお金では解決できないということを、この数十年の世界の 歴史が明らかにしてきたのではないでしょうか。むしろ、経済的な発展の結果が、ある段階から格差の拡大や、文化の貧困化へ向かったと見るほうが自然です。 これは、経済の拡大が様々な問題を解決するフェーズを過ぎて、新たな問題となるフェーズに入ったということを意味しています。」(同書、144ページ)

 平川氏は、資本主義が「産業資本主義」「消費資本主義」を経て「金融資本主義」の段階に到達したとき、逆説的に、最も進んでいたはずの西欧諸国に おいて総需要が停滞し、経済成長が実現できないという「袋小路」に入り込んでしまったという。そして、「このプロセスを後押ししたのは、各国の為政者の思 惑や、大資本家や企業の果てしない成長の欲望であるのは言うまでもありませんが、同時にわたしたち自身が自由と快適な生活を求めてきた結果でもあった」 (同書、186ページ)と付け加える。
 それゆえ、平川氏は、「そろそろこの夢から覚める必要があると、わたしは考えています。そして、このような時代に、日本人が採用すべき生き方の基本は、 縮小しながらバランスする生き方以外にありません」(同書、202ページ)と主張するのだが、「小商い」とはこのような考え方から出てきた言葉である。た だし、「小商い」というと、ビジネスの規模のことだと誤解されるのを恐れて、平川氏は、「小商い」をおこなっている友人の会社(自動車の部品製造の会社) のイメージを次のように語っている。

「製品のひとつひとつを大切に誠意を込めて作り出す生産ライン。
 それらを顧客に届けて、信頼と満足をフィードバックさせるシステム。
 拡大よりは継続を、短期的な利益よりは現場のひとりひとりが労働の意味や喜びを噛み締めることのできる職場をつくること。それが生きる誇りに繋がること。ちいさな革命が労働の現場で日々起きているような会社。」(同書、205ページ)

 このような文章から「古き良き時代」の日本的経営がうまく行っていた時代を懐古的に思い浮かべる向きもあるかもしれないが、以前と違う特徴は、 「経済成長神話」がなくともやっていけるという平川氏の「信念」のようなものが投影されていることである。平川氏は、次のように述べている。

 「小商いとは、さまざまな外的な条件の変化に対して、それでも何とか生きていける、笑いながら苦境を乗り越えていけるためのライフスタイルであり、コーポレート哲学なのです。
 これまでも、これからも、外的な環境変化に対して、あたかもそれが存在しなかったかのように、自分たちのすべきことを着実に実行し、積み上げ、価値を作ってきたものは生き残ってきたし、生き続けていくだろうと思います。
 これは、わたしが日本の街場を歩いてみて、あるいは生産の現場を見てきた実感です。」(同書、221ページ)

 平川氏と類似の思想を経済学に求めようとするならば、やはり古典派時代の偉大な知識人であったJ.S.ミルの「定常状態」〔「全生産額-地代]- 賃金総額=利潤=0となる状態、英語ではstationary stateという)に対する肯定的な評価だろう。「縮小均衡」といってしまうと、「縮小再生産」のように限りなくゼロにまで「縮小」してしまうようにイ メージされやすいので、経済学者でそれを理想的に描いた者はほとんど見当たらない。せいぜい定常状態に到達し、利潤がゼロになるのだけれども、そこでも人 間的進歩の可能性はあるというミルの主張や、その系譜が見つかる程度ではないだろうか。それにもかかわらず、ミルの見解は、古典派時代には十分に[異端」 的であったし、現代でもそうである。
 きわめて重要なところなので、ミルの『経済学原理』(1848年)から原文も掲げてみよう2。


It is scarcely necessary to remark that a stationary condition of capital and population implies no stationary state of human improvement. There would be as much scope as ever for all kinds of mental culture, and moral and social progress; as much room for improving the Art of Living, and much more likelihood of its being improved, when minds ceased to be engrossed by the art of getting on. Even the industrial arts might be as earnestly and as successfully cultivated, with this sole difference, that instead of serving no purpose but the increase of wealth, industrial improvement would produce their legitimate effect, that of abridging labour.

 「資本と人口の定常状態が人間的発展の停止状態を意味するものでは決してないことは、改めて指摘するまでもない。定常状態でも、以前と同じよう に、あらゆる種類の精神的文化や、道徳的および社会的進歩の余地が十分にあることに変わりはないだろう。また『生活様式』を改善する余地も以前と変わりな く、むしろそれが改善される可能性は、人間の心が仕事を続けていく術に夢中にならなくなるとき遙かに大きくなるだろう。産業の技術さえも、以前と同じよう に熱心に、かつ成功裏に開拓されるだろう。唯一の違いは、富の増大という目的だけに奉仕する代わりに、産業上の改善が労働を節約させるという、そのもっと もな効果をもたらすだけになるだろうということだ。」

 
 ミルが他の古典派経済学者と違って「定常状態」に肯定的な評価を与えたのは経済思想史の上では全く「異端」の思想であったが、それは決して「ユートピ ア」ではないと言い切るのは、「社会的共通資本」(自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つに大別される)の概念で有名な宇沢弘文氏(東京大学名誉教授)である( 『経済学と人間の心』東洋経済新報社、2003年)。
 宇沢氏は、ミルの「定常状態」をマクロ的諸変数(国民所得、消費、投資、物価水準など)が一定でありながら、ミクロ的には華やかな人間活動が展開されて いる状態として捉えているが、このような状態は、ソースタイン・ヴェブレンの制度主義の経済学によって実現可能だと主張する。「それは、さまざまな社会的 共通資本(social overhead capital)を社会的な観点から最適な形に建設し、そのサービスの供給を社会的な基準にしたがっておこなうことによって、ミルの定常状態が実現可能に なるというように理解することができる。現代的な用語法を用いれば、持続的発展(sustainable development)の状態を意味したのである」と(同書、118ページ)。
 ミルの「定常状態」がヴェブレンを介して社会的共通資本論へと受け継がれるというのは宇沢氏独特の解釈だが、一つの思想が形を変えながら何度も甦るという経済思想史の典型的な特徴を垣間見るようで実に興味深い。
 だが、平川氏は、「小商い」と「持続的発展」が類似のものだといわれたら承服するだろうか。おそらく、「違う」というのではないか。というのも、平川氏 の関心が単なる「経済」ではなく、それを支える価値観を問題にしているからである。『小商いのすすめ』には、次のような文章も登場する(この点、平川氏 は、自分の考えが橋本治氏『貧乏は正しい!』小学館文庫、1997年、の影響を受けていることを率直に認めているようである)。

 「もうおわかりだと思いますが、わたしが言う、昭和初期のおとなとは、いまだ富を手に入れていないひとびとであり、それゆえ野生と若さを身体の中 に蓄えていたひとびとのことだということです。当時の日本の社会はそういったひとびとによって支えられていたということです。そして、階級格差の少ないア ジアの島国では、関川夏央さんが言ったように、誰もが共和的に貧しく、それゆえに明るくいられたのだと思います。
 かれらの社会の価値観の中心にあるのは、美しさということであり、富を蓄えるということではありません。この美しさの表象のひとつが、貧しさの中の帽子だったのかもしれません。
 そして、その帽子の下に隠されていたのは、日本人のみずみずしい野生だったのです。
 しかし、かれらが富を手にし始めた頃、つまり一家にテレビ、冷蔵庫、洗濯機、クーラー、自動車などが揃い、こどもひとりひとりにこども部屋ができ、主婦 たちが家事労働から解放されるころから、日本人から野生が消えていきました。その民主化のプロセスのなかで、じりじりと出生率が下がり始め、経済成長率は 頭打ちになっていくことになりました。」(同書、105-106ページ)

 経済学者と文筆家とは違うといえばそれまでだし、私もノスタルジックに過去を憧憬するだけでは終わりたくはないのだが、平川氏の本を読んで、現代 の日本人が「人間が本来の野生を失い、金銭的欲望と利便性への誘惑に支配されてしまう」(同書、189ページ)という意味での「文明病」に冒されているこ とを繰り返し強調しているのをみると、『小商いのすすめ』とは一種の「文明批評」なのだと思い至る。「昭和元禄」のような時代を再び夢見るのか、それとも 「文明病」から目覚めて「小商い」の方へ舵を取るのか、それは私たちの決断にかかっていると言えるだろう。


     注

1 平川氏の著書のサブタイトルは、「『経済成長』から『縮小均衡』の時代へ」となっているが、その問題意識は、同時期に公刊されたアンドリュー・J.サター氏の『経済成長神話の終わり』(講談社現代新書、2012年)と 驚くほど重なっている。サター氏は、サブタイトルに「減成長と日本の希望」という言葉を選んでいるが、ここで「減成長」とは、フランス語の décroissance(「脱成長」や「非成長」と訳されることもある)の意味で使われているようである。サター氏は、「減成長による繁栄」を実現する ための民主市議的諸改革にまで説き及んでいるが、少しこのエッセイが扱う範囲を超えているので、関心のある読者はその本を手にとってほしい。
2 Collected Works of John Stuart Mill,vol.3: Principles of Political Economy, Books Ⅲ-Ⅴ,Liberty Fund,1965,p.756. 『経済学原理』の翻訳は岩波文庫(末永茂喜訳)にあるが、少し古くなっているので、拙訳を掲げておいた。


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Posted by 根井雅弘 at 2013年03月25日 07:48 | Category : 経済/ビジネス




kinokuniya shohyo 書評

2013年03月24日

『マンガでわかる社会学』栗田宣義/著  嶋津蓮/作画  トレンド・プロ/制作(オーム社)

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「日本初のマンガで読む社会学テキスト」

 本書は、おそらく日本で初めてのマンガで読む社会学テキストである。といっても、100%のページがマンガで占められているわけではないが、各章ごとに マンガでのイントロダクションや概略説明がストーリー仕立てでなされた後で、数ページの「フォローアップ」という文字ページでさらに理解を深めるような構 成となっている。

 授業で使うか、自習用にするかは迷うところだが、ノリがいいクラスならば、講義時間の前半をマンガの読解およびそれを元にしたフリートークなどに あてて(あるいは、マンガは読みやすいので事前に読んでおくことを課題としてもよいだろう)、後半を文字ページの内容を中心としたまとめにあてるといった 構成も可能だろう。


 著者の栗田宣義氏は、常に斬新な試みを続ける一方で、研究内容には定評のある社会学者ということもあり、「フォローアップ」の文字ページの内容もしっかりとしているので、「マンガで学ぶなんて・・・」と敬遠せずに、初学者は一度手に取って見るとよいだろう。


 評者も学部生のころから、より分かりやすい社会学テキストはないものかと思案を巡らせてきたこともあり、このような形で、なんとか社会学の魅力を初学者に伝えようとするその著者の姿勢については、拍手を送りたいと思う。


 ちなみに学部生の頃の評者は、大学受験参考書で定着しつつあった「実況中継」スタイルの大学の講義テキストができないものかと思案していた。だが最近で は、語り口調の社会学テキストも増えてきたので、より分かりやすさを重視するなら、本書のように思い切ってマンガをメインにするというのも、「アリ」な選 択と言えよう。


 その一方で、気づいた点を1つだけ記しておきたい。


本書は「マンガでわかる」という斬新なスタイルをとりながらも、内容においては、きわめてオーソドックスである。すなわち「規範」「行為」「役割」「集ま り」「社会化」といった基礎概念にあたるものを順番に押さえたうえで、やや各論的な内容として「ジェンダー」に触れ、最後に付録として調査法が紹介されて いる。


 こうしたスタイルの著作である以上、おそらく専門的な研究書よりは発行部数を多くすることを求められ、その分、「最大公約数」的にオーソドックスな内容にすることが求められたのではないかと推察する。


 だがそのことが、わざわざ女子大学生を主人公とするマンガをメインにしたことと、どこまでマッチングしているかという点には、やや疑問が残るといわざる をえない。マンガは、今日では多くの人が読むメジャーなメディアではあるが、登場人物の心情を掘り下げつつ、ストーリーをより身近に思わせて感情移入を誘 うメディアであるならば、もっと女子大学生の日常生活をメインにした内容に徹底してもよかったのではないだろうか。


 具体的に言うならば、第6章でのジェンダーに関するもの(バイト先のカフェの店長からセクハラを受けている悩みなどが事例)であったり、そのあとのエピ ローグで触れられている様々な社会問題とその解決(反原発運動など)といった内容を冒頭に持って行った方が、読者がより関心を持ちやすかったのではないだ ろうか。


 これは昨今において、社会学テキストを作るときには、ほぼ誰しもが通らざるを得ない悩みでもある。今までならば、学問の道具立て(基礎概念)を教え込ん でから、応用編として各論に進んでいったものが、そもそも学生たちの社会問題への関心の乏しさゆえに、まずその関心を喚起するところから始めなければなら ない、という問題があるのである。


 マンガを生かして、なおかつ登場人物をせっかく女性に限定してストーリー立てているのだから、あえて「最大公約数」を狙わずに、「一点突破全面展開」的 に女子大生の目から見た社会とその問題から話を始め、そのための社会学へと進んでもよかったのではないだろうか(現実的な言い方をすれば、その構成ならば 「女性のことを理解したければこれを読め」と男子学生にも薦めやすいように思われる。なぜか逆は想像しにくいのだが)。


 いずれにせよ、これからの入学後のシーズンに社会学を志す初学者だけでなく、関心があるならば、高校生や中学生…あるいは小学生にも、チャレンジしてみてほしい一冊である。


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Posted by 辻 泉 at 2013年03月24日 12:00 | Category : 社会



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2013年03月20日

『月山山菜の記』芳賀竹志(崙書房出版)

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「ゼンマイはこんなところで芽吹いていたのか!」

3月中旬にもなると、ビニールハウスで育ったものだとわかっていても山菜を売りにしたメニューを注文してしまう。水煮缶詰を堂々使う店に驚いたこともある けれど、「採りたて」とも「今年の」ともうたっていないからこちらの見極めが甘いに過ぎない。スーパーにも一斉に山菜が並ぶ。春の一夜の食卓にはハウスも のでも気分は十分、でもこれにはどうしても手が出ない。かといって天然ものを取り寄せたりするのはこころに合わず、たまたま送っていただくか旅先で食べる などの時々の記憶がつながっていけばいいと思ってきた。


天然山菜の最初の記憶は子ども時分の5月の休日。朝起きると父がいない。昼ご飯のあと母が筵をひいたり灰汁抜きのための大鍋を用意する。午後3時ころに なって帰ってきた父は車の中から籠や袋を取り出し、採ってきた山菜を筵に広げて種類分けする。食べられるもの、食べられないもの、飾るもの。さらに、今夜 食べるもの、保存するもの、近所に配るものなど家族総出で始末する。ゼンマイの綿をとったり月山筍の皮をむいたり子どもの仕事もたくさんあった。こころ浮 き立つ春の1日が、その年の気候次第で前後してやってきた。

     ※

ときどきひどい怪我を負った父も歩いたであろう月山(山形県)が抱く”月の沢”の山菜やキノコについて、「月山頂上小屋」の主人・芳賀竹志さんが長年撮り ためた写真を添えて著したのがこの本だ。先代の小屋主でもある父親と中学生のころから渓流釣りや山菜採りを楽しみ、小屋を継いでからは自ら採取した山菜や キノコを料理して登山者に供しているそうである。

コゴミ、アブラコゴミ、ウド、タラノメ、ウルイ、シドケ、コシアブラ、ワラビ、ゼンマイ、ミズ、アイコ……。これらがどんな場所に生えているのか、まずは 写真が示してくれる。私が大好きなゼンマイが生えている場所の写真には〈通常"ヒラ"と呼ばれる山の斜面。良質のゼンマイが群れなすそこは、とにかく切り 立った険しい環境の地が多い〉とある。50〜60度もあるような崖地にへばりついているそうである。こんな危険なところに、柔らかな綿をかぶって生えてい たとは! 生えている場所を見つけるコツ、秋の下見や道すがらの注意。採るときにはいくら群生していても最低でも全体の3分の1は残さねばならないこと、 株の根元から折らないこと。保存のしかた、おすすめのレシピ、調理上の注意、薬効、名称の由来、古老たちに教えられたこと。

林道や砂防ダムが建設されたり天然のダムと呼ばれた万年雪が温暖化によって減少するなど、半世紀のあいだに目の当たりにしてきた月の沢の変化にこころをい ためながら、原生のブナ林と雪解け水による豊かな生態系の中でおごることなく暮らしてきた知恵を、ご自身の体験から示している。

     ※

今では月山近くのスーパーにも栽培ものの山菜が並ぶそうである。”自然”食志向の高まりに押されて地元の農家が地名を冠した山菜の栽培をはじめれば、ご多 分にもれず季節を前倒しした出荷となる。山にほんとうの春が来て名人たちが摘んだ山菜を売り場に並べても、〈栽培品に季節を先取りされた分、後発組は珍し さから遠のきあぶれる羽目になる〉。あきれるが、納得もする。私たちは食材としての初モノを異様に好む。食材以前のそのもの姿に思いが及ばなくなってい る。「切り身の魚」が海を泳いでいると思っている子どもたちの話は可笑しいけれど、切って売り買いしている大人たちが笑う話ではない。

これから毎春この本を開けば、子ども時分に食べた味の記憶をよみがえらせながら、月の沢に芽吹く山菜たちの姿や物語を思い描くことができるだろう。味覚の 記憶はなにも味覚だけで反復しなくていい。小さな記憶を糧にしてこんな楽しみができるようになったことがとてもうれしい。

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Posted by 四釜裕子 at 2013年03月20日 15:40 | Category : 趣味/実用





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2013年03月19日

『共在の論理と倫理−家族・民・まなざしの人類学』風間計博・中野麻衣子・山口裕子・吉田匡興共編著(はる書房)

共在の論理と倫理−家族・民・まなざしの人類学 →bookwebで購入

 「本書は、清水昭俊先生から教えを受けた学生有志によって編まれた文化人類学の論文集である」。本書を読み終えて、個人的にはまったく存じあげない清水 昭俊先生が、いかに優れた研究者であり、教育者であったかがわかった。さまざまな地域や分野、関心をもつ論文をひとつにしたとき、いくら編者がうまく説明 しても、バラバラ感はぬぐえないのが通常であるが、本書にはなにかしら一体感があった。それは、各論稿が、「清水への言及を結節点としながら互いに関係し あうことに」なったからにほかならない。

 その編者のうまい説明は、「まえがき」でつぎのように記されている。「本書は、さまざま[な]地域や分野を対象とし各自の関心を異にしつつも、この願い を共有する文化人類学者が、それぞれの研究を持ち寄り、「地域研究」「個別分野の研究」を超えた広がりの中に自らの探求や思考を位置づけ、特定の「地域」 や「分野」(研究)の背後に控える「人類」(学)の在りようを浮かび上がらせようとする企てである。そのために、本書では、対象地域や分野が多岐に渡るに もかかわらず、各執筆者の間で共通する一点、すなわち、それぞれの学的基盤の形成過程で清水から少なからず影響を受けた事実に注目し、清水のこれまでの仕 事のいずれかに言及することを執筆の条件とした」。そして、「共在」、つまり、「人と人が共に在り、関係することが、いかなる影響を当の人びとに与え得る のかという問いへと読者を」誘っている。

 本書は4部16章と、清水昭俊寄稿「民の自己決定−先住民と国家の国際法」と中国人の教え子の随想「清水先生に見守られてきた私と中国の人類学」からなる。

 第1部「人のつながり」の1、2、3章は、「清水が提示した家族・親族、そして集団的紐帯をめぐる理論的枠組みと各自のフィールドにおける民族誌事例と を対話させつつ、清水の枠組みと民族誌的資料双方の含意を汲み取ろうとする試みである。4、5章もこの点は同様であるが、この二つの章は、家族・親族理論 以降の清水の関心とも共鳴している。4章は家族という事象の「力関係」をめぐる側面を照らし出し、5章は近代以降の「文化接触」を対象にしながら、清水の 家族・親族理論の読み直しを行い、既存の人類学的韓国社会研究の限界を乗り越えるための方策の提示を試みている」。

 「第2部「抑圧と周辺性の諸相」は、家族・親族研究以降に清水が関心を寄せた「周辺民族」、あるいは「先住の『民(族)』」に関わる問題を対象とした5 本の論稿から成る。いずれも、「周辺性」あるいは「先住の『民』であること」が、当の人びとにとってどのようなものとして具体的に経験されているのかを描 き、論じる」。

 「第3部「まなざしの交差する場」は、特に人びとに向けられる他者からの視線、また対象となっている人びとが自らに向ける視線の現在を主題として、 フィールドの「いま現在」の「進行中の事象」に焦点を絞った4本の論稿から成る。言うまでもなく、人類学は、人類学者が人びとに向ける視線の一類型であ る。いまや人類学者の視線は現地の人びとが自らに向ける視線、あるいはその隣人たちが人びとに向ける視線に対して「客観性」に基づく優位性を主張できなく なっている。人類学が対象とする人びとが置かれている視線をめぐる「現在」を知ることで、人類学は自らを省みることができる」。  「第4部「人類学の再構想」は、人類学が社会の中で果たし得る役割についての考察を促す2本の論稿から成る。「永遠の未開文化」の探求をもっぱらとする 人類学が、「いま現在」の「現場で進行中の事象」に向かい合ったとき、現に生きている学的対象たる人びとと人類学者との関係の再考が迫られ、人類学の社会 的再定義が求められることになる。清水が人類学の限界を乗り越える契機として再び呼び起こしたマリノフスキーは、植民地統治改革のために実用人類学を唱え るマリノフスキーであった」。

 本書を読み終えて、なにか得した気分になった。いままで、当然のように一方的に語られてきた視線から解放されて、もうひとつの視線があることを気づかせ るものが随所にあったからである。たとえば、カナダ先住民の長老に、「あなたは私とあなたがカナダという国から平等に扱われていると思うか」と問われた中 国系カナダ人が、「そう思う」と答えたのにたいして、長老はつぎのように答えている。

 「それは違う。我々はあなたたちのような自由を持っていない。我々の住んでいる土地は、我々個人の財産にはならない。私は、祖父や父がやっていた方法で サケを捕ることも禁じられている。もしもあなたが中国にいる時に誰かがやって来て、今日から中国語を話してはならない、中国式のお祭りも結婚式も葬式も やってはならないと言われたらどう思うか。そんなことをした人たちの言うことを信用できるか。そんな人たちが作った国を自分の国だと思えるか。あなたたち はここに来て幸せに暮している。子供たちが自分たちの言葉を話せなくなっているのを何も感じないかもしれない。でも、我々はイギリス人が我々にしたことを 決して忘れない。第一、この国がカナダになるずっと前から我々はここにいるのだ」。

 このことは、近代に語らなかった人びとが語り始めたことを意味し、近代に「奉仕」した人類学からの解放をも意味している。人類学者だけではない。いまわ たしたちは、近代に語る術を持たなかった人びと、口を閉ざさせられた人びとの視線で、現代、そして未来を見つめる必要がある。そんな視線を理解している論 稿が並んでいるような印象を受けた。

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Posted by 早瀬晋三 at 2013年03月19日 10:00 | Category : 地域研究





asahi shohyo 書評

浅田彰「構造と力」 マルクスをポップ化

[掲載]2013年03月26日

著書「構造と力」について話す浅田彰さん=伊藤菜々子撮影 拡大画像を見る
著書「構造と力」について話す浅田彰さん=伊藤菜々子撮影

表紙画像 著者:浅田彰  出版社:勁草書房 価格:¥ 2,310

 難解なはずの現代思想家の理論を明快に整理した『構造と力』が、1983年に出版された。ベストセラーとなり、既存の学問領域にとらわれない ニューアカデミズムの「聖典」の一つに。簡単に読める本ではないはずなのに、本が醸し出す軽やかな雰囲気に多くの人がひかれた。実は、著者の浅田彰がヒン トにした本がある。
     ◇
 僕が26歳の時の本です。当時は現代思想といってもすべてがごた混ぜだったので、それさえ頭に入れておけば知の世界を自由に渉猟できるような明快な地図が描きたかったんですね。
  そのためには哲学的な正確さを多少は犠牲にしてもいい。そもそも僕は哲学に興味がなかったんです。マルクスの言ったように、哲学は世界をさまざまに解釈し てきた。観念論か唯物論か、解釈はどうにでも変更できる。しかし大切なのは世界を変革することなのだ、と。そのためには、現実に対するクリティーク(批 評・批判)や、別の現実を構想するビジョン——それらを総合した「思想」が必要です。
     ◇
 しかし、とくに1972年の連合赤軍 事件の後、日本ではマルクス主義思想が急激に退潮します。代わって、「どうせ資本主義しかない」というシニシズムのもと、問題が生じたらそのつどパッチを 当てるという「部分的社会工学」が支配的になる。それを補完するのが、ソ連流のドグマティックなマルクス主義を批判し、日本の大衆社会に立脚しようとす る、吉本隆明流の思想でした。マルクス主義が退潮してしまえば、それは大衆の自足と自閉を肯定するだけになってしまいます。
 そういう流れに抵抗 するため、ヒントにしたのは、哲学者ジル・ドゥルーズが精神療法家フェリックス・ガタリと書いた『アンチ・オイディプス』(72年)でした。ユートピアは もはや不可能だと言われる時代に、マルクスをニーチェやフロイトと結びつけながら、資本主義のダイナミズムを半ば肯定しつつ、さらにそれを超えたユートピ アを大胆に描いてみせる。それをモデルとして、いわばマルクスの思想をポップ化しようと思ったんですね。だから、一般向けの本として書いたのではないけれ ど、ベストセラーになっても驚くことはありませんでした。
     ◇
 現在、「難解」な理論や思想はもはや求められていないように見え る。しかし、本当にそうか。グローバル資本主義が成立した結果、反資本主義の運動も世界中で激化している。もはや部分的社会工学ではカバーできない矛盾が 噴出しているわけです。日本でも東日本大震災を契機に反原発運動が広がっている。そこで大江健三郎さんや柄谷行人さんが語る原理的な言葉が多くの人々をと らえているのは、注目すべきことです。利口ぶったプラグマティストは「あんなナイーブなことを言って」とシニカルに構えるけれど、それは間違っている。原 点に返って現実を批判し、別の現実を構想することが、求められているのです。
 そのためにも、この本をバージョンアップしたような新しい地図が必 要になっているのかもしれない。とくに、東アジア諸国には、さまざまな伝統がある一方、日本が100年以上かけて受容してきた近代思想や現代思想が10年 くらいで一挙に押し寄せている。議論を整理するためにも何らかの地図が必要でしょう。さもなければ、マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」のような 米国の有名大学の「知」がすべてをのみ込んでしまう。それこそ悪(あ)しきグローバル化じゃないでしょうか。(聞き手・高久潤)
     ◇
 あさだ・あきら 1957年生まれ。批評家。京都造形芸術大大学院長。著書に『逃走論』『映画の世紀末』など。出版から30年の『構造と力』は増刷を重ね、現在53刷。

この記事に関する関連書籍

構造と力 記号論を超えて

著者:浅田彰/ 出版社:勁草書房/ 価格:¥2,310/ 発売時期: 1983年

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逃走論 スキゾ・キッズの冒険

著者:浅田彰/ 出版社:筑摩書房/ 価格:¥693/ 発売時期: 1986年

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映画の世紀末

著者:浅田彰/ 出版社:新潮社/ 価格:¥1,890/ 発売時期: 2000年04月

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アンチ・オイディプス

著者:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、市倉宏祐/ 出版社:河出書房新社/ 価格:¥5,670/ 発売時期: 1986年

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ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 上

著者:マイケル・サンデル、NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム、小林正弥/ 出版社:早川書房/ 価格:¥1,470/ 発売時期: 2010年10月

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ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業 下

著者:マイケル・サンデル、NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム、小林正弥/ 出版社:早川書房/ 価格:¥1,470/ 発売時期: 2010年10月

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