2010年7月10日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年07月09日

『フロイトのイタリア—旅・芸術・精神分析』岡田 温司(平凡社)

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「イタリアン・コンプレックス」

 フロイトはイタリアに憧れていた。ゲーテと同じように、そしてイタリアを訪問するまでには長い時間がかかったのだった。一八九五年になってやっと弟のア クレサンダーとともにヴェネティアを訪問する。それ以来というもの、一九二三年にいたるまで、一八回もイタリアを訪問している。

 そしてそれはたんなる観光旅行ではなかった。著者が指摘するように、「一八九五年の『ヒステリー研究』のフロイトから、一九〇〇年の『夢判断』のフロイ トへと変貌を遂げるうえで、イタリア旅行がある内的な必然性をもって強く要請されていた」(p.14)のである。この書物は、フロイトのイタリア訪問の記 録を丹念に追いながら、その内的な必然性を明らかにしようとするスリリングな試みである。

 イタリアには何があったか。古代のローマとギリシアの遺跡と絵画、風物である。ミケンジェロのモーセも、レオナルドの「聖アンナのいる聖母子」 も、グラディーヴァもある。フロイトの机の上を飾ったエジプトの神々の小さな彫像もある。フロイトの芸術論と文学論の中心を占めるものがすべてイタリアに ある。フロイトはイタリアでコレクターになるのだ。

 著者は、とくにフロイトにとってローマが、「幼年期におけるエディプス的な母の身体の象徴でもある。〈ローマ〉とは禁止された〈愛〉のことであ り、それゆえ、近親相姦への恐れや、知へのエディプス的な嫌悪感とも、深いところで結びついていたのだ」(p.140)と指摘する。「そこにはエロスとタ ナトス、生の本能と死の本能とのあいだの葛藤も刻印されている」(同)のもたしかなことだろう。

 ただし著者の考察は、ここにたどりついたところで終わる。フロイトのイタリア旅行の考察であるから、ここまでで十分なのかもしれない。しかしフロ イト論としては、これは終点ではなく、出発点だと思う。この母の身体の問題については、サラ・コフマンの『女の謎—フロイトの女性 論』が詳細な分析を展開していて、とても面白い。ローマという視点から、コフマンを読み直すのも、一興だろう。あるいはドイツ人のイタリアン・コ ンプレックスの歴史を調べてみるのも、面白いかもしれない。

 それでもミケランジェロとレオナルド論の構造の対比は、言われてみればもっともで、とても興味深い(p.259)。
          レオナルド論       ミケランジェロ論
アプローチ:    作り手から        受け手から
原動力:      母親           父親
心的メカニズム:  ナルシシズム的      エディプス的
          近親相姦的        親殺し的
          偶像崇拝的        偶像破壊的
病理学       強迫神経症的       妄想分裂症的
主体        享楽           葛藤

 あと、鼠男の診断で、フロイトがポンペイの出土品を示しながら患者に語った言葉、「あれはもともと墓からの発掘品です。埋もれていたおかげて保存 されていたのですね。むしろポンペイの滅亡は発掘されたときから始まってくいのです」(p.205)は、何とも示唆的である。発掘が破壊の始まりであり、 考古学がこの倒錯からどうしても逃れることができないとすると、精神の考古学である精神分析もまたこの倒錯に追いつかれる。精神分析もまた、破壊の始ま り、あるいは破壊の完遂ではないだろうか。そのことは「精神分析そのものの存続を危うくすることにほかならないのではないか」(p.206)と、ぼくも著 者とともに思わざるをえないのである。


追記
本書は平成21年「読売文学賞(評論・伝記賞)」を受賞したのだそうである。恐れ入りました。


【書誌情報】
■フロイトのイタリア—旅・芸術・精神分析
■岡田 温司【著】
■平凡社
■2008/07/25
■316p / 22×16cm
■ISBN 9784582702798
■定価 3990円

●目次
はじめに
一章 イタリアからの便り、前篇
二章 イタリアからの便り、後篇
三章 「イタリアへ向かって」/「生殖器」
四章 「石は語る」
五章 レオナルドとミケランジェロへの挑戦
六章 イタリアのフロイト—カトリシズムとファシズムの狭間で
おわりに


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