2010年7月6日火曜日

asahi Okuyami おくやみ Tadao Umesao 梅棹忠夫

民族学者で文化勲章受章者の梅棹忠夫さん死去、90歳

2010年7月6日18時34 分

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写真梅棹忠夫さん

 「文明の生態史観」をはじめ独創的な文明・文化論を展開した民族学者で初代国立民族学博物館長、文化勲章受章者の梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんが、 3日午前11時7分、老衰のため死去した。90歳だった。葬儀は近親者で行った。喪主は妻淳子さん。後日、「お別れの会」を開く。連絡先は大阪府吹田市千 里万博公園10の1の国立民族学博物館。

 1920年、京都市生まれ。昆虫採集の好きな少年で、旧制京都一中では山岳部に入り、それが人生を決めた。旧制三高時代に、中学の先輩で当時京都大にい た人類学者今西錦司さんらと登山や探検に熱中。進学した京大では動物生態学を専攻し、北部大興安嶺(現在の中国東北部)や内モンゴルなどを探検。野外調査 を中心とする後の「梅棹学」の基礎を作った。

 戦後は、大阪市立大助教授時代の55年、京大カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。海外での調査を再開し、研究対象を人類学へと変え、学際的な研 究で独自の視点を示してきた「京都学派」の推進役にもなった。

 57年に「文明の生態史観序説」を発表。文明の盛衰を気候や地理学的な条件により生態学的に把握したユニークな学説だった。欧州中心の歴史観と一線を画 し、日本とヨーロッパの文明を、それぞれ人類文化発生の地の縁に生まれるべくして生まれたと位置づけた。戦後の復興期を経て、日本が自信を取り戻し始めた 時期に、新たな「日本論」としても注目された。

 発想の才に恵まれ、いち早く「情報産業」という概念を提唱したほか、「知的生産の技術」(69年)などのベストセラーで時代を先取りした。

 大阪万博をきっかけに政界や財界に働きかけ、国立民族学博物館を設立した。74年6月に初代館長に就任。その功績で87年度の朝日賞を受賞した。

 同館長は93年春まで務めたが86年、突然失明。それでも執筆の意欲は衰えず、「梅棹忠夫著作集」全23巻が94年に完結した。

 04年に肺がんなどで手術したが、この春まで毎週、顧問を務める同博物館に顔を出すなど元気だったという。




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