2010年7月4日日曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年07月02日

『『チャタレー夫人の恋人』と身体知 — 精読から生の動きの学びへ』武藤浩史(筑摩書房)

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「萎えの詩学」

 大学院の演習でシェイクスピアの『ソネット集』を読んでいるのだが、中には扱いづらいものがある。たとえば135番。たった14行の中で「ペニス」を表 す語が13回も出てくる。こういうの、どうやって語ったらいいんでしょう? しかし、授業で135番を担当した院生は一度も「ペニス」という語を口にせず に、実にさわやかに作品を分析してみせた。そのあとに続いたディスカッションでも、誰も「ペニス」とは言わなかった(と思う)。

 これぞ精読。テクストにあらわれた表情や、テクストからあふれ出す情念をいったん�宙吊り�にし、右から左から、上から下からのぞきこむのであ る。じっと見る。なんでそんなことをする必要があるかというと、元々読むという行為には呪術的な面があるからだ。私たちがふだん、思わず文章を暗唱したり 声に出して読んでしまったりすることからもわかるように、文章には読み手の身体に乗り移ってくる作用がある。憑依する。これはなかなか気持ちがいい。まさ に快感。興奮する。クセになる。

 でも、そういう気持ちよさって危険だよね、と警告を送るようになったのが近代批評なのでもある。文章がこちらに乗り移ってくるのを「ちょっと待っ て!」と食い止めながら、読む。精読とは、憑依してこようとする文章の魔力を退けつつ、なお、その文章を受容するという非常に手の込んだ技なのだ。ただ、 もっとややこしいのは、二一世紀の私たちにとって問題となりつつあるのが、文章が憑依してくることより、むしろ逆で、憑依してこなくなったということ。文 章という制度はもはや機能しなくなりつつあるのかもしれない……。

 そのあたりのことを考えるのに、武藤浩史の『『チャタレー夫人の恋人』と身体知』はとても参考になる。本書の前半はとりあえず正攻法で、作品の言 葉や展開を分析しながら、背後にある歴史状況やイデオロギー的なニュアンスを明らかにするというスタンスになっている。たとえば、この作品では階級問題が 身体感覚を通して描写されているといった説明は、そもそも時間をかけて小説を読んだことのない人にとっても助けとなりそうだ。

 しかし、丁寧に読むという程度のことなら『チャタレー夫人の恋人』のような有名な作品についてはすでに数多く行われてきた。武藤の議論に独自の色 があるとしたら、この作品を語るのに彼がしつこく「精読」という言葉をキーワードにしているということである。そのことによって武藤は、言葉による「憑 依」との付き合い方について再考するきっかけを与えてくれる。

 本書でまず柱となるのは、『チャタレー夫人の恋人』を「性愛小説」という枠組みから解放しようとする試みである。このような姿勢は、単にこの小説 を「エロ本」として読もうとするような通俗的な読みを退けるだけでなく、この本にふつうに知的に感動しようとする読者にも警鐘を鳴らす。つまり、「男女の 触れ合いの温かさが機械文明の冷たさと鋭く対照的に描かれている」とか、「性的に解放され本来の人間関係を見つけた男女が社会問題の解決の鍵を握る」と いった読み方はイマイチですよ、というのが武藤の最初のステップなのである。

 これが�憑依の禁止�の段階である。『チャタレー夫人の恋人』の言葉に乗り移られた読者は、性的に興奮するにせよ、人生指南や社会問題理解の書と して感動するにせよ、その言葉に乗り移られることで作品を読んでいる。あるいは乗り移られたつもりになっている=乗り移られることで読んだことにしようと している。武藤の精読は、その�乗り移り�から読者を解放し、私たちを文章の裏側へと導こうとする。

 その裏側には、性愛を性器中心にとらえたり、異性愛を前提としたりする考えをひっくりかえすような見方がある。武藤の狙いは、こうして『チャタ レー夫人の恋人』にまっすぐに興奮していこうとする読者を、いったん萎えさせてしまうことなのだ。性的にも文化的にも。

 しかし、それが終着点なのではない。武藤の議論の核心はまさに「萌え」ならぬ「萎え」にある。

…『チャタレー夫人の恋人』の場合も、その始まりと終わりに注目すれば、男根は「うなだれて」始まり「うなだれて」終 わっている。物語冒頭では言うまでもなくクリフォード・チャタレーの戦傷による下半身不随への言及がそれに当るが、見過ごされがちなのは、猟番メラーズが 書く手紙という形を取っている小説最後の一文である——「チンスケしゃんは、ちょっとうなだれて、でも希望に満ちた心で、マン姫しゃんにおやすみと言って います」。

 武藤はこうしてロレンス自身の不能問題や�健康な�性器中心主義に対する違和感といった伝記的事実を織り交ぜながら、『チャタレー夫人の恋人』が まさに「萎え」の小説であることを明かしていく。その過程では性器からはずれた性愛の可能性——たとえば「尻」への執着——なども視覚的な証拠を交えて実 証されていく。

 しかし、何よりおもしろいのは、このように「萎え」を語る武藤自身の語りが、「萎え」どころかある種の熱狂をすら体現していることである。上記引 用部のあとはこんな具合だ。

つまり、『チャタレー夫人の恋人』はクリフォードのうなだれた男根への言及で始まり、猟番が自らの男根がうなだれていることを記 すことで終わる小説なのである。もちろん、この作品は十数回の性交描写を含み、勃起して機能する男根が描かれるが、巻頭と巻末で言及される機能しない男根 の意義と重要性もまた忘れてはいけない。絵画と小説とこの時期の作品を総合的に見て判断すると、あるレベルで勃起男根にこだわると同時に、別のレベルで勃 起しない男根にこだわっていることが分かる。

我が院生と違い、「男根」とか「勃起」といった言葉をこれでもかと頻用しながら、武藤は「萎え」の性愛を不思議な盛り上がりとともに描出していくの である。武藤自身の文体に元々ある反復を厭わない�元気さ�が、このような形で「萎え」と組み合わせられていくあたり、青白い訓詁学を連想させがちな「精 読」という作業に新しい可能性を開くようで頼もしい。

 武藤自身がこの小説の訳者だということもあり(ちくま文庫刊)、ふんだんな作品からの引用と地の文との息のあった競演も楽しめる。とりわけ、翻訳 の際に武藤が気を遣った方言の訳出が、本書の議論の中で「純粋な階級」と結びつけて語られるあたりは読みごたえがある。武藤の言う「標準語では表現不可能 なものを表現できる優れた身体的言語としての方言の力」がいったいどんなものなのか、最後に実例を引用して終わろう。(九州弁がなかなかいい。)

《ばって、おまえはよかまんこじゃのう。この世に残った最高のまんこばい。……》 《まんこってなに?》と女が訊いた。 《知らんとね? まんこはまんこじゃ! 下のほうにいるおまえじゃ。おれがおまえん中にいる時におれが感じるもんじゃ。おまえが感じるもんじゃ》

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