存在と時間 [著]ハイデガー
[掲載]2010年7月25日
- [筆者]筒井康隆(作家)
2010年2月、東京都内で開いた朗読会の楽屋で、舞台の準備をする鏡の中の筒井さん=郭允撮影
■超難解、苦しみが喜びに
中央公論社「世界の名著」に収録されている原佑訳『存在と時間』は、何しろ二十世紀最大の著作と言われているだけに、完読にはずいぶん時間がかかった。だ から読み終えた時の充足感は大きく、その内容の受け売りをしたくてならず、ついに「誰にもわかるハイデガー」と題して内容おまかせの講演依頼があればこれ をやり、とうとうカセットブックにまでしてしまったのだから、よくまあのめり込んだものだ。
ハイデガーは人間という存在者を現存在と表現する。「現存在は、他の存在者のあいだで出来(しゅったい)するに過ぎない一つの 存在者ではない。現存在が存在的に際立っているのはむしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であること によってなのである。だが、そうだとすれば、現存在のこうした存在機構には、現存在がおのれの存在においてこの存在へと態度をとる或(あ)る存在関係を もっているということ、このことが属している」といった超難解な文章を苦しみながら読んでいくうち、読解できた時の喜びに伴い、苦しみそのものが愉(た の)しくなってくるのが不思議だ。
さらに言語の厳密な定義が哲学には不可欠であることを教えられるうち、自分は言葉の意味をこれほど厳密に区別して使っているか という反省に至ったりもする。例えば恐れについては、知っているものが突如性を伴って出現した時は「驚愕(きょうがく)」、見知らぬものが徐徐に近づいて くる場合は「戦慄(せんりつ)」、見知らぬものが突如性を伴って出現した時は「仰天」という具合に、恐れの種類を厳密に規定しているのだ。
ハイデガーは早く言ってしまえば「死を想(おも)え」という哲学である。そして死を実に魅力的に書いている。と言っても青年を 死に向(むか)わせるようなものではない。逆に、死があるからこそ生の意味を認識できると言っているのだ。まず死に対して向き合うことによって、その物凄 (ものすご)い形相をした死に打ち砕かれる。そうでない限り死から眼(め)をそむける頽落(たいらく)に陥ってしまって、死をあいまいな現象にし、不安を 単なる恐れに逆転させてしまうのだ。こうした非本来的な存在のしかたには、空談、好奇心などさまざまなものがあり、これでは本来的な自分に直面して死を想 うことはできない。何度も死を想うことに到来すれば、あるべき自分を了解することができる。そして現在を自分の内から開放することができるのだ。つまりは 現在の自分の本来的な存在のしかたを知り、真に他者と出会うこともできるというのである。
ハイデガーは後年ナチスへの接近などで非難されることになったが、こうした自分のなすべきことへの真剣さから、おのれが引き受 けている遺産つまり伝承の中から宿命を選んだことが関係したのかもしれない。むろんそんなことでこの大著の価値が僅(わず)かでも下がるということはあり 得ないのだ。
筒井康隆のつくり方とでも名づけるべきこの「漂流」はこれで終(おわ)る。ハイデガーが言うように、哲学書こそは書物の中の書物なのであるから、ここにおいていったん漂着したのだと思っていただきたい。=終わり
◇
中央公論社「世界の名著62」で1971年刊行(原佑・渡辺二郎訳)。現在は岩波文庫、中公クラシックスなどで。
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