2009年4月22日水曜日

asahi shohyo 書評

墜(お)ちてゆく男 [著]ドン・デリーロ

[掲載]2009年4月12日

  • [評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■テロを生き延びたあとの世界で

  また一冊、「文学になにができるか」を問うような小説が翻訳された。本書の題材は、9・11テロ。ここに、ユダヤ系哲学者アドルノの「アウシュビッツを経 た今、詩を書くことは野蛮である」という言葉をあえて引こう。既存の世界観が砕け散った9・11後に小説を書くことはどういうことか。以前と変わらぬもの が描けるのか。世界中の作家にとって、「あの日」は避けて通れない出来事となった。

 本書は、テロ航空機がツインタワーに激突する場面で始まり、同じ場面で終わる。大災害を生き延びたエリートビジネスマンは、呆 然(ぼうぜん)としたまま他人の鞄(かばん)を抱えて別居中の妻のアパートに身を寄せる。街には、スーツ姿でビルから宙吊(づ)りになる「落ちる男」が現 れるが、これはタワーから飛び降りる男性を撮った有名な報道写真を模したパフォーマンスアートだ。

 修復されそうで一層深くひび割れていく夫婦仲、鞄の持ち主との情事、子供たちが作りだす謎の男の神話、妻が行う認知症老人らと のセッション。テロ後の生活が、デリーロ独特のつっけんどんとも言える醒(さ)めた筆致で断片的に示されていき、一方、テロの実行犯となる男の来し方が綴 (つづ)られる。

 戦争、宗教、歴史などの巨大な問題を扱う本作の手つきは、ややぎごちない。しかし小説は「大きな物語」という戦車が通りすぎた 後に残ったものから始まるはずだ。つまり、生き延びた者たちに課せられた命と日常の継続性、そしてその動かしがたさである。認知症の老人らは「あの日」の 体験を思い出し語ることで、刻々と進む記憶の崩壊を堰(せ)き止めようとする。彼らにとって9・11は生への手がかりにもなっているのだ。

 「落ちる男」がテロに対して最も早く応答するアートであるなら、本書『墜ちてゆく男』が書かれるには6年の歳月を要した。しか しこの作品に9・11への答えはない。人の救済や癒やしのために書かれてもいない。文学が社会の未来を「先読み」したり過去に「回答」したりしようとする 滑稽(こっけい)さ、野蛮さを、本作はただ物語るのみである。

    ◇

 上岡伸雄訳/Don DeLillo 36年生まれ。現代米国を代表する作家の一人。

表紙画像

墜ちてゆく男

著者:ドン デリーロ

出版社:新潮社   価格:¥ 2,520

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