2012年6月21日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年06月19日

『東南アジアから見た近現代日本−「南進」・占領・脱植民地化をめぐる歴史認識』後藤乾一(岩波書店)

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 本書の帯に、1991年に天皇が初めてインドネシアを訪問したとき、インドネシアの有力紙に掲載された社説の題「傷は癒えたが傷痕は残っている」が大書 されている。「[日本の占領・軍国主義化の]苦しみと残虐な外傷はまだ残っており、彼ら[国民]の脳裏に焼きついているとしても当然であろう」という「国 民感情の底流にあるものを厳しく凝視」したこの社説は、東南アジアで比較的犠牲者の少なかったインドネシアでも、深い傷跡を残していることをあらわしてい る。最大の激戦地となり人口の7%の110万余が犠牲になったといわれるフィリピンでは、その傷はさらに深く、「その傷口からの流血は見えないところで今 でも続いて」いる、とフィリピン第一の研究者は述べている。

 それにたいして、日本では「欧米諸国の圧制に苦しんでいたアジア諸国の独立回復を早めた点は、評価すべきだ」という解釈が早くから根強く存在し、それは 1995年の「終戦五十周年」を契機に強まった「歴史修正主義」派の積極的な言論活動で、一般とくに若者のあいだで受け入れられるようになってきている。

 著者、後藤乾一は、この東南アジアの人びとの認識と乖離していく日本の現実を踏まえて論考を書き、それらをまとめたのが本書である。1995年に出版さ れ、2010年に岩波人文書セレクションに収録された『近代日本と東南アジア−南進の「衝撃」と「遺産」』の姉妹編でもある。

 本書の内容については、表紙見返しにつぎのように的確にまとめられている。「日本と東南アジアのあいだの戦前・戦中・戦後関係史を、それぞれ「南進」 「占領」「独立と脱植民地化」をキーワードにしながら、いまなお決着していないアジアの近現代史をめぐる歴史認識問題に一石を投じる」。「第一部は日清戦 争前後期から、対東南アジア軍政から敗戦を経て、東南アジア各国の脱植民地化・独立を通して新たな地域秩序を構築するにいたるまでの約六〇年間の歴史過程 を扱う」。「第二部は、戦時期における日本の外交官・陸海軍武官・残留日本兵という重層的なインドネシア体験を通して、日本及び日本人にとってのインドネ シア独立革命の意義と真実を描く」。「第三部は、一九三〇年代から戦時期にかけての民間輿論や知識人におけるアジア主義言説、及び戦後五〇年を経てにわか に浮上した「解放戦争」史観・「自衛戦争」史観・「独立貢献」史観をめぐる排外主義的なナショナリズム言説をたどり、言論空間における日本人の東南アジア 像を明らかにする」。

 著者は、これまで原口竹次郎、大島正徳、若泉敬といった中央と周辺の両方からみることができる人物を通して、時代や社会を考察してきた。本書でも、それ がいかんなく発揮されていることは、目次にあらわれた人物名からわかるだろう。日本とインドネシアという国家同士の関係史を制度史としてだけみるのではな く、人物を介在させることによって、人間同士の関係で成り立っていたことを明らかにしている。

 本書は、「過去十数年に執筆した諸論考を中心に編んだもの」で、「必要に応じ旧稿を補正するとともに、近年の内外の新たな研究成果も可能な限り反映させ ることに努めた」という。それは、たやすいことではない。それぞれの論考は、その時どきの研究状況や社会的背景によって書かれるもので、後から出てきたも のをその時の文脈に書き入れることは、齟齬をきたす。したがって、ほんの付け足しにしか書けないのが、通常である。しかし、本書で感心したのは、新たな研 究成果が論考のなかでうまくおさまっていることである。しかも、新たな研究成果というのは、日本・インドネシア関係や日本・東南アジア関係といった本書に 直接かかわるものだけではない。各論考を相対化するために、より広い視野のなかで勉強したものである。それは、「負の遺産」を克服するためには、より客観 視する必要であったからだろう。

 著者の基本的モティーフは、「まえがき」でつぎの2点に集約されている。「第一は、近現代史の中で日本と東南アジアはどのような関係を築き、その歴史を 双方とりわけ日本は、どのような認識枠組みの中で理解したのかという問題である。第二は、日本人が東南アジアに向けるまなざしという問題である。近代西欧 を尺度として東南アジアを理解するある種のモダニズムが、はたして克服されたのか否かについての関心に発するものである。この二つは本質的なところで表裏 一体の間柄にある」。  しかし、著者が思うように進んでいないのが日本と東南アジア関係であり、その原因は日本側の「東南アジアから見た近現代日本」像の欠如であることは明ら かである。この現実をどうすれば改善できるのか、その答えがないことは本書の締めくくりのことばが少ないことであらわされているのかもしれない。

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