2012年05月29日
『安部公房の演劇』 高橋信良 (水声社)
比較演劇学者による安部公房論である。演劇は安部公房の仕事の大きな柱で、ついには自分で劇団を主宰したほどだったが、演劇人としての安部公房を 論じた単著はナンシー・シールズの『安部公房の劇場』くらいしかなかった。シールズの本は実見した舞台や安部公房へのインタビュー、安部スタジオの取材に もとづく貴重な記録だが、安部演劇全体に目配りしたものではない。安部公房の演劇への係わりを総体として論じた本としてはおそらく本書がはじめてだろう。
本書は三部にわかれる。まず「� 叙事という名の抒情」で「安部システム」と呼ばれる安部公房が編みだした独自の俳優訓練を解説した後、「� あわせ鏡の世界」で小説の戯曲化としてはじまり「友達」へと結実していく前期を、「� おかしくて恐い世界」では自ら演出を手がけるようになって以降の後期を語る。
いきなりだが「� 叙事という名の抒情」ははなはだ難解である。わたしは本書を出版された直後に読みはじめたが、冒頭部分で放り出してずっと積ん読状態をつづけ、今回ようやく読みきった。
安部公房は新劇的な演技を「気持ち芝居」と批判し、目指すべき目標として「ニュートラル」を掲げていた。「ニュートラル」がなにを狙い、なにでな いかは理屈でわかるが、「ニュートラル」の実体がなにかとなると体験の世界であり、理屈では近づきようがないのだ。著者は1997年に安部スタジオの元メ ンバーが指導した「安部公房システム・ワークショップ」に参加したということであるが、それなら体験を書いてほしかった。現代思想用語などなんの意味もない。
「�」の最後の部分では最初の戯曲とされて来た「制服」について『全集』で明らかになった二つの新事実を紹介し、「制服」の成立が安部自身が語っ た、小説として書きはじめたら戯曲になってしまったというような単純なものではなかったと指摘し、初期戯曲は『どれい狩り』を中心に考察すべきだとし、以 後の分析の全体的見取り図を示している。
安部公房は小説やラジオ・ドラマを戯曲に仕立て直すということをよくやったが、再演にあたっては戯曲に手を入れ、場合によっては別物に改作している。見取り図を見ると作品間の絡みあいが一筋縄ではいかないことがわかる。
案の定「� あわせ鏡の世界」は錯綜している。わたしのような知能の低い人間はついていくのも難儀で、何度も放り出しそうになった。各作品の成立事情が複雑なのはわかるが、もうちょっと整理のしようがあったのではないか。
唯一面白かったのはシュプレヒコールからミュージカルが生まれたという条で、井上ひさしは安部公房から影響を受けている可能性がある。
最後の「� おかしくて恐い世界」は個別作品の紹介に終始しており、あっさり読めた。読みやすいのはいいが、安部が自分で演出する中で新劇の演技や俳優養成法に疑問を 持ち、「安部システム」を生みだしていくという一番重要な部分が、簡単におわってしまっているので肩透かしされたようでもある。
勝手な注文だが、「安部システム」は現代思想用語で抽象的に語るよりも、後期の実作に即して、生成の過程を具体的に跡づけていれば、わたしのような頭の悪い人間にも理解できる本になったのではないかという気がする。
本書は非常に重要な試みであるが、現代思想用語が理解できない人間にもわかるように書いてほしかったと思う。
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