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電子書籍について早くから発言してきた津野海太郎氏の論集である。
三部にわかれ、第一部は本書のための書き下ろし、第二部は2001年から2009年までに発表した電子書籍関係のエッセイ、第三部は1986年にリブロポートから出た『歩く本—ブックマンが見た夢』に収載されたブラッドベリ論の再録である。
第一部「書物史の第三の革命』は欧米で1950年代に同時多発的に生まれた書物史の観点から電子書籍を見直す試みである。
昨今の電子書籍論は近視眼的なビジネスの話ばかりだが、五千年の文明の流れで見ると、電子書籍は文字の発明による口承記録から文字記録への移行と いう第一の革命、東洋では10世紀、西洋では15世紀にはじまる印刷術による写本から印刷本への移行という第二の革命につづく第三の革命として位置づけら れる。
これまでの革命では冊子本によって巻子本が、印刷本によって写本が廃れたように全面的な代がわりが起こったが、第三の革命でも同じことが起こるのだろうか?
津野氏はそうはならないだろうという。第二の革命の写本と印刷本の競争は同じ紙の本同士の競争だった。同じ土俵でぶつかる以上、馬車が自動車に とってかわられたように、一冊一冊書き写す写本が一挙に大量のコピーが作れる印刷本に圧倒され、駆逐されるのは必然だった。しかし電子本はモノではない。 紙の本とは次元が違うのだ。電子本は場所をとらない、資源を消費しない、文字の拡大が可能、検索性など紙の本よりすぐれた面がある反面、一瞬で跡形もなく 消えてしまうなど非物質であるがための固有の欠陥がある。馬車と自動車は並び立たなくても自動車と飛行機は共存可能なように、紙の本と電子本は棲みわけ可 能というわけだ。
ただし棲みわけるといっても、紙の本の比重が下がっていくことは避けられないし、資源の観点からは望ましいことだと津野氏は結論する。中国やインドの人たちが日本人と同じだけの印刷本をもとうとしたら、世界中の森林は丸裸になってしまうからだ。
津野氏の議論にはおおむね同意したいし、そうなってほしいが、音楽メディアの交代を考えると疑問がないわけではない。音楽の場合SPはLPに、 LPはCDにとってかわられ、今CDがオンライン配信におきかわりつつある。SP、LP、CDはいずれもモノだが、オンライン配信は非物質である。物質的 メディアから非物質的メディアへの全面移行が起こりつつあるのだ。
もちろん紙の本が全滅することはないだろうが、中小の書店が存続不能なまでに市場が縮小するということは十分ありうる。今、町のレコード店はどんどん潰れているが、書店もそうならないという保証はないのだ。
第二部には今はなき『本とコンピュータ』誌関連の文章や、『電子書籍奮戦記』の萩野正昭氏との対談、グーグル・ブックサーチ騒動関連の文章がならぶが、一つだけとりあげるとしたら「ウィキペディアとマチガイ主義」という2009年のエッセイである。
ウィキペディアに間違いが多いのはご存知の通りだが、津野氏はウィキペディアをはじめた連中は確信犯的マチガイ主義者だなと直感したという。
急いでお断りしておくと、「マチガイ主義」は津野氏の造語ではない。チャールズ・パースの fallibilism(「可謬主義」と訳されることが多い)に鶴見俊輔があてた訳語である。『アメリカの哲学』から孫引きする。
絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性、これらは、われわれの経験的知識の達し得ないところにある。われわれの知識は、マチガイを何度 も重ねながら、マチガイの度合の少ない方向に向かって進む。マチガイこそは、われわれの知識の工場のために、最もよい機会である。
これこそプラグマティズムのエッセンスだろう。日本人、特にインテリは「マチガッテハイケナイ主義」にがんじがらめになっており、間違っても直せばいいというアメリカ流の乱暴でマッチョな文化を毛嫌いするという指摘はなるほどと思った。
第三部の「歩く本—ブックマンが見た夢」と題したブラッドベリ論はわざわざ再録するだけあって、一番面白かった。
表題にある「ブックマン」とはもちろn『華氏451度』に登場する、森に隠れて本を暗唱する人々のことである。
1953年に上梓された『華氏451度』に当時猖獗をきわめたマッカーシズムが影を落としているのは常識に属するが、津野氏は1952年の線文字Bの解読の成功と、その後に起こった文字に対する関心の高まりもと影響しているのではないかという。
この仮説は無理筋だと思うが、ブックマンを琵琶法師のような放浪の藝能者になぞらえる見方はぞくぞくするほど魅力的だし、日本が破滅して『坊ちゃん』が口承伝承の過程に置かれたらどのように変形していくかという想像にはセンス・オブ・ワンダーをおぼえた。
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