2010年4月14日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2009年12月09日

『神と仏の出逢う国』鎌田東二(角川学芸出版)

神と仏の出逢う国 →bookwebで購入

「神仏でにぎわう年末年始に!」

まさに「師走」の慌しさが追いかけてくる。しかし、これを乗り切れば、一年間おつかれさまでした、となる。
年末年始は、にわかに神とか仏が気になるシーズンだ。クリスマスという異国の神のお祭りもあるのでなおさらだ。

お寺に行くと、すぐそばに神社があったりする。あるいは、神社の中に別の神社があったりもする。日本の神と仏はやたらと混ざり合っている。

学校の歴史の授業で習った「神仏習合」ということなのだろうが、純粋を好む人には気持ちが悪い。少なくとも西洋の「宗教」という概念では理解できないような精神風土が日本にはある。

とはいえ、世の中では「仏」を求める人は仏だけを、「神」に焦がれる人は神だけに打ち込んでいるのかもしれない。後者は特に「国家神道」のイメージが邪魔をして、知識人であればあまり足を踏み入れない領域に見える。

神道は日本の基層にある民間信仰すなわちアニミズムであるが、明治政府の宗教政策によって「宗教」ではなく「習俗」ということになった。その結果、 日本人の多くが「無宗教」を自認するにいたる「ねじれ」が、阿満敏麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)他に詳述されている。

近代化とともに「宗教」そのものが変容を遂げ、過去と現在をつなぐ精神的な紐帯が空洞化する。近代に合わせてつくりあげられた新しい「宗教」の虚妄 性が明らかになるとき、われわれは「宗教」そのものを忌避するにいたる。そして空虚な「祭り」だけが残る。それはまさに「習俗」だ。

そんなモヤモヤに答えてくれそうな本があった。鎌田東二『神と仏の出逢う国』(2009.09 角川選書)である。

著者のことは別の本で知った。京都大学こころの未来研究センター教授であり、かつ法螺貝や横笛やギターなどの楽器に通じ「神道ソングライター」の肩書きで活動している。先祖は源義家の重臣だとか。面白い方である。

神仏習合を「出逢う」とやわらかく表現してるが、本書で打ち出されているビジョンは、すこぶる壮大なものだ。

まず神道は日本的精神性の大元にあるものだ。そこに伝来の仏教を受け入れた。当初から「仏」をも一つの「神」と見ていた日本的霊性の原点が明らかにされる。

以来、律令の昔から、(基本的に)現在にいたるまで、神と仏の両者は、互いに寄り添って、日本人の宗教観をかたちづくってきた。近年では、特定の教 団を念頭としない宗教性を「霊性」(スピリチュアリティ)と呼ぶことが広く行われているが、著者の立場も、神道と仏教は、かたちは異なっても共通の霊性で 結ばれていて、いわばモードの違いとして両者を位置づける。

著者は「神は在るモノ、仏は成る者」と表現する。神道は自然から発し、仏教は人間から発する。かたや常住、かたや求道。アプローチはちがっても、補完し合っているのだ。

そして未来へ。神仏はより「共働」を深めて、人類の普遍的霊性へと開かれていくとする。そこでは、宗教観の差異を超えて、平和や環境といった人類共通の課題に向けて、宗教者が手を取り合って行く。

本書の過半では、そこにいたるまでの日本の神と仏の歴史がスケッチされている。著者の力業で、ぐいぐい読ませる。

それはまさに、時代時代の政治権力を支える「神話」と不可分であった。

空海らの天才的なビジョンによって成立した、在来の土俗の神と国家鎮護を担う仏教の体制から、骨肉相食む末法の中世は、根源的一者を求める、伊勢神道、吉田神道、鎌倉新仏教のルネサンス。

それが近世、天下統一を成し遂げた徳川幕藩体制下では、東照権現ネットワークの下、宗教本来の活力は骨抜きにされる。

そして迎えた明治維新。明治政府は、信教の自由という西洋の基準を受け入れた一方で、「神仏分離令」、次いで悪名高い「廃仏毀釈」に走り、日本の宗 教的古層を破壊する。神道は習俗であって宗教ではない、という不思議な論理は、大日本帝国憲法に成文化される天皇の「かつてない神格化」とセットだった。

それはまた、後の「国家神道」イデオロギーの元凶として(水戸学とともに)名指されることの多い「国学」の敗退でもあった。島崎藤村の名作『夜明け 前』のドラマでもある。平田篤胤は霊界の研究にも打ち込んでいたというのが興味深い。その失われた「国学」の可能性を、柳田国男と折口信夫という極めて対 照的な個性が引き受けた事実は注目されてよい。

そして、現代とは、「神」にとって、どういう時代だったのか。「憲法九条」にまで話が及ぶ著者の持論を、今上天皇ならば、どう聞くだろうかと興味を 惹かれる。平和な世を願ってつけられたはずの「平成」は大乱世の始まりというのはその通りであろう。「失われた二十年」に続けて、何をなすかが問われてい る。

著者は、今こそ、神か仏かではなく、両者を包み込むスピリチュアリティ(霊性)を、と唱える。そのきっかけとして、寺社の別なく、まずは自分の足で 聖地を歩いてみることをすすめている。実際、近年、伊勢神宮から比叡山延暦寺までの「神仏霊場百五十ヶ所」巡りが人気を集めている。

筆者も、ふとしたきっかけで、寺や神社を訪ねることが多くなった。歩いてみれば、そこここにある。むずかしいことを言わないで、歴史や先人の息吹に目覚めてみれば、見えなかったものが見えてくる。


(洋書部 野間健司)


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