2010年4月6日火曜日

asahi shohyo 書評

クリティカル・モーメント [著]高田康成

[掲載]2010年3月21日

  • [評者]苅部直(東京大学教授・日本政治思想史)

■歴史の中での批評のありよう検証

 表題にある「クリティカル」は、「批評」そして「臨界」という意味につらなる形容詞である。著者によれば「批評」とは、西洋の近代に特有の、知の営みにほかならない。

 神の啓示という根拠が見失われた時代に人間は、みずからの知がもつ相対性という「臨界」を自覚しながら、何らかの世界観をうちたてる必要に迫られる。その課題を担ったのが、近代の「批評」である。

 だがそこには同時に、価値の絶対の根源をなす(はずの)ギリシアやローマへの憧(あこが)れが、常に明滅していた。シェイクスピアの作品に見えるローマ共和政の理念や、トマス・モアの人文主義に基づく理想と同時代の王権との対立について、この本は詳しく語っている。

 近代の出発点にあった、そうした文人の営みも含めて、歴史の中での「批評」のありようを広く検証しようという意図なのだろう。表紙と各部の扉を、ギリシア・ローマの古典を題材にした絵画が飾っており、近代と古典の伝統とのつながりを暗示して、心にくい趣向である。

 しかし、ポスト・モダンの思潮が幅をきかせ、価値相対主義が自明の前提となった今日では、古典への憧れなど時代錯誤ではない か。著者はその疑問をやんわりうけいれながら、それでもなお、相対主義に「赤ランプ」をつけ、何らかの根拠をもった「批評」の可能性を示そうとする。

 この方向への導き手として登場するのが、激動の二十世紀に、ドイツ、日本、アメリカと遍歴を重ねた哲学者、カール・レーヴィットである。レーヴィットが他面で、日本人の文化傾向をきびしく批判したことについても、この本は言及を忘れない。

 論理に基づく議論による対決を避け、問題解決を感情論に頼ろうとする社会で、「批評」がはたして生きられるのか。現代における相対主義の問題に加え、課題は二重になってくる。

 いや、この書評にしてからが、はたして「批評」たりえているだろうか。著者の語り口は時に軽妙であるが、その含む指摘はとても怖(おそ)ろしい。

    ◇

 たかだ・やすなり 50年生まれ。東京大学教授(表象古典文化論)。

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