2010年04月07日
『ダリ・私の50の秘伝』ダリ,サルヴァドール(マール社)
絵具が画家にとって大事な素材道具であるのは論を俟たないだろう。
『原子爆弾の作り方を知っている人はこの世界に何人かいるが、ファンアイク兄弟やフェルメールが浸していた「神秘の果汁(筆者注:絵具と溶剤のこと)」を知るものは、こんにち、この地球上に誰ひとりとしていない—この私でさえ知らないのだ。』
ラピスラズリ(瑠璃)は『周囲の色を一気に汚してみせてしまう』。最も美しく最も有意義な色は白と黒であること。ヴェネチアンレッドの絶妙な抑揚。メデユームの適応相関比較図、などなど。
ダリのイラスト(挿画多数)は、空山基に似ている。フォルムではなくテイストが。
この読書がピエロ・デラ・フランチェスカに行き着いたのは、<<秘伝44>>において『ルネサンス絵画最大の謎』とダリ本人が語る、「視中心の卵」のためだ。この祭壇画は 現在ミラノのブレラにあり、ピエロ後期の傑作だが、Marilyn Aronberg Lavinの著書"Piero della Francesca (Phaidon, 2002)"にあるように、聖母頭上の貝殻(ビーナスの貝殻)と「卵」が、transept(翼廊)越しに遠近法で描かれており、極めて不思議なモチーフ であり構図である。ダリが言うところの『最大の重力で聖母の頭上に吊り下げられて』いる「卵」は母性の冠だ。豊穣のしるしであって、バランスの取れた珠玉 である「ウニ」、ミルクの冠なのである。消失点であり、アイロニーであって、『世界の意味論的な重みを宙づりにする』(レッシグ)「卵」なのだ。
たしかにファンアイクの「教会の聖母」は驚異である。絵画空間がフレーム外側の世界まで支配し、聖母の教会をヴァーチャルに作り出してしまってい る。パノフスキーの<象徴形式としての遠近法>が言うところの、『。。。単に家とか家具とか個々の対象が縮尺されて描かれているようなばあい にではなく、画面の全体が—ルネサンス期の別の理論家の表現を借りれば—いわばそれを通してわれわれが空間をのぞき込んでいると思い込む「窓」と化してい るようなばあいに、そしてそうした場合にのみ、まったき意味での遠近法的な空間直裁が行われているということにしたいのだ』。さっき、朝食のテーブルで、 安っぽいトースタの鏡面に映る食べ終わりの食器。直視では見えない光のハイライトが美しい。アルノルフィーニ夫妻画のファン・アイクが見つけた鏡面光の魔 術。昏い室内に差し込む外光。見ることの楽しさ。
繰り返しになるが、画家としてのダリにはさほど興味はない。知りたいのは見ることの秘儀、このわが眼球の欲望なのだ。
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