2010年4月7日水曜日

asahi shohyo 書評

漂流 本から本へ

アウル・クリーク橋の一事件 [著]ビアス

[掲載]2010年4月4日

  • [筆者]筒井康隆(作家)

■この一作で文学史に残る

  青山通りに面した草月会館では時どき芸術的な短篇(たんぺん)映画の上映会を催していた。ここで見た「ふくろうの河」という短篇映画にぼくは感心した。原 作がアンブローズ・ビアスであると知り、ぼくは早速岩波文庫から出ているビアスの短篇集『いのちの半ばに』を読んだ。訳者は西川正身で、この人の訳した 『悪魔の辞典』は学生時代に読んでいたのだがひどい抄訳で、おまけに面白くなかったから、以来ビアスとは無縁だったのだが、この作品でビアスを評価するよ うになった。残念ながら短篇として凄(すご)いのは「ふくろうの河」の原作「アウル・クリーク橋の一事件」だけだった。それでもこの作品ひとつでビアスは 文学史に残る作家になり得ている。

 南部の富裕な地主だったペイトン・ファーカーは南軍のために何か武勲を立てようとしていた。そこへ南軍の兵士がやってくるが、実はこれが北軍の斥候だった。彼の言葉に騙(だま)されてペイトンは北軍の列車を妨害しようとし、捕まってしまう。

 映画はここから始まる。ペイトンは自分が燃やそうとしたアウル・クリーク鉄橋から吊(つ)るされようとしている。手首は背中で くくられ、首にはロープが巻かれている。そして二十フィート下の奔流へと突き落(おと)される。しかしロープが切れ、彼は流れに落ち込む。両手の細紐(ひ も)を解き落し首のロープをはずして彼は水面に浮かびあがった。橋の上からは男に向けて一斉射撃が行われるが、彼は水に潜り、遠く川下に流れつく。

 映画ではここから歌声が入る。男の眼(め)に映じる川岸の樹木の一本一本、その木の葉にすがる昆虫類、蜻蛉(とんぼ)のはばた きなどに重なり、生きていることの素晴らしさと生命の賛歌が歌いあげられるのだ。森に逃げ込んだ彼は、妻や子のいるわが家めざして歩きはじめる。そしてわ が家の前に立つ。あたりは男が出かけた時のまま。朝日の光の中で一切のものが明るく美しい。門を開いて入ると妻が立って待ちうけている。「ああ、なんと美 しいことか。両手をさしのべて、彼はおどりよった。そして妻を抱きしめようとした。その途端、首筋に眼の眩(くら)むような激しい打撃を感じた」「ペイト ン・ファーカーは死んだ。首の挫(くじ)けた彼の死体は、アウル・クリーク橋の横木の下で、ゆるやかに右へ左へと揺れていた」

 映画のラストシーンを見て、ぼくはあっけにとられた。死の瞬間というものをこれほど鮮明な残酷さで捉(とら)えた作品は他にな いのではないか。ぼくはのち、岩波新書から『短篇小説講義』という本を出して何篇もの短篇の傑作を紹介しているが、その中の一篇がこれであり、ぼくはこの ように紹介している。「人間心理が『死』というテーマと『結末の意外性』によってくっきりと浮かび上がり、そこには人間を見るアンブローズ・ビアスのいつ もの皮肉な視点もちゃんと備わっている」つまりはもはや誰が真似(まね)をしようとしても盗作にしかなり得ない、どうしようもない傑作なのだ。さらにの ち、ぼくは以前失望した『悪魔の辞典』の復権をめざし、面白い完訳をと努力して、ついに上梓(じょうし)することになる。

    ◇

 『英米ホラーの系譜』(ポプラ社)に「〜橋でのできごと」(野沢佳織訳)として収録

表紙画像

英米ホラーの系譜 (ホラーセレクション (9))

著者:R.スティーヴンスン・C.ディケンズ

出版社:ポプラ社   価格:¥ 1,050

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