皿に渡来中国人官僚の名 奈良・西大寺、史書を裏付け
2010年4月12日18時37分
筆で中国人「皇浦東朝」の名が書かれた土器=8日午後、奈良市大安寺西の奈良市埋蔵文化財調査センター、荒元忠彦撮影
筆で中国人の「皇浦東朝」の名が書かれた土器。後ろは奈良市埋蔵文化財調査センターの森下恵介所長=8日午後、奈良市大安寺西の同センター、荒元忠彦撮影
平城京にあった西大寺旧境内(奈良市西大寺新田町)で、奈良時代に遣唐使船で来日した中国人、皇甫東朝(こうほとうちょう)の名前が記された皿状の須恵 器の破片(8世紀後半)が出土した。奈良市埋蔵文化財調査センターと奈良県立橿原考古学研究所が8日、発表した。奈良時代の史書には約60人の渡来中国人 が登場するが、発掘史料で存在が裏付けられたのは初めて。
須恵器片は、平城京(710〜84)跡北西部にある西大寺旧境内の溝(幅7メートル、長さ30メートル、深さ1.5〜2メートル)から出土。円形 で、焦げ跡や油のしみが確認されたため、同センターなどは、油をためて芯に火をともした灯明皿(直径約16センチ、高さ約3センチ)とみている。裏側に墨 で「皇浦東」と書かれていた。欠けていたため、続く文字は判読できなかったが、「朝」の一部とみられる。
「甫」が「浦」と書き間違えられた理由として、同センターなどは「皇甫東朝が仏前にささげた灯明」の意味を示すため、別人によって名前が記された▽何者かが皿の裏を利用して文字を練習した——とみている。
奈良時代の正史「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると、皇甫東朝は736(天平8)年、第10次遣唐使の帰国船で来日。766(天平神護2)年 に法華寺(ほっけじ)の法要で唐楽を演奏した功績で「従五位下」を受けて貴族に。翌年に「雅楽寮員外助(ががくりょういんがいのすけ)兼花苑司正(かえん しのかみ)」に任ぜられ、雅楽を担当する役所の次官心得と、天皇が花を観賞して楽しむ花園(はなぞの)の管理所の長官となった。聖武天皇の娘で、西大寺を 開いた称徳天皇(718〜70)に重用されたらしい。
遣唐使などに詳しい東野(とうの)治之・奈良大教授(古代史)は「平城京の国際性と唐人官僚の活躍を裏付ける生の資料として貴重だ」と話している。須恵 器は12〜18日、奈良市大安寺西2丁目の市埋蔵文化財調査センター(0742・33・1821)、24日〜6月20日に奈良県橿原市の県立橿原考古学研 究所付属博物館(0744・24・1185)で公開される。(成川彩)
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■皇甫東朝の歩み
736年 第10次遣唐使の帰国船で来日。聖武天皇から位を受ける
756年 聖武天皇が死去
765年 即位した称徳天皇の発願で西大寺が建立される
766年 法華寺の法要で唐楽を演奏した功績で「従五位下」を受ける
767年 「雅楽寮員外助兼花苑司正」に任ぜられる
769年 「従五位上」を受ける
770年 称徳天皇が死去。「越中介」に任ぜられる
797年 続日本紀が完成
(*続日本紀の記載から作成)
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