2008年9月16日火曜日

asahi shohyo 書評

小林多喜二名作集—「近代日本の貧困」 [著]小林多喜二

[掲載]週刊朝日2008年9月19日号

  • [評者]海野弘

■多喜二ブームは現代社会への大いなる皮肉か

 なんだか奇妙な時代だ。小林多喜二の『蟹工船』が売れているという。一九二九年、世界大恐慌の時に出たプロレタリア文学が、なぜ今、とおどろかされる。

 この本は、時ならぬ多喜二ブームを一過性に終わらせないために、『蟹工船』以外の作品を集めて、若い読者に読みやすい形にして出したものである。手に入りにくくなっている古い作品に再読の機会をつくってくれたことは、うれしい。

 私なども以前、『モダン都市周遊』で、『蟹工船』をモダン都市文学として再評価すべきだと書いたが、早すぎたのか、なんの反応もなかった。それが今、思いがけないブームである。

 この現象は、いくつかのことを考えさせられる。一つには、まったくかけはなれているようで、現代が、大恐慌にはじまる一九三〇年代、失業と貧困の時代にどこか似ているのだろうかという思いである。

 「O市は港町だったので、浜人足や自由労働者が多かった。(その市では自由労働者のことを出面取と云っている)」(「失業貨車」)

 O市は小樽市のことであるが、自由労働者とか出面取などのことばは、現代の、日雇い、臨時雇用、フリーター、ネットカフェ難民 などに重なってくるかもしれない。現代の貧しき若者が、時代も社会もちがう多喜二の小説に妙な親近感を抱くとすれば、ちょっとこわいような時代の予感がす るのだ。

 一方、『蟹工船』が読まれていることは、読むべき新しい作品がないという、現代文学の衰弱、貧困を物語っているのではないだろ うか。この不安で奇妙な時代に全身でぶつかっていくような新しい文学が出てこない。なめらかで読みやすく、心地よく通りすぎる作品はあるが、物足りない。 それは、癒しではあるかもしれないが、現代を丸ごと表現しようとするものではない。

 小林多喜二名作集が新書で出されることは、現代文学、いや現代社会に対する大いなる皮肉であるかもしれない。

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