2013年6月3日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年05月29日

『物の体系』 ボードリヤール (法政大学出版局) / 『消費社会の神話と構造』 ボードリヤール (紀伊国屋書店)

物の体系 →紀伊國屋ウェブストアで購入 消費社会の神話と構造 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 ボードリヤールの第一作と第二作で、どちらも消費社会を解明した基本図書としてロングセラーをつづけている。大昔に読んだことがあるが、付箋を貼りながら読みかえしてみた。

 以前は緻密に書かれた本だと思ったが、今回は心余りて言葉足らずというか、若さにまかせて一気に書いたけっこう荒っぽい本という印象を受けた。若 いボードリヤールには消費社会のビジョンがはっきり見えていたが、1960年代のフランスは消費社会がまだ成熟しておらず、どう表現したらいいのかもどか しがっていたのかもしれない。

 塚原史氏は『ボードリヤールという生きかた』で『物の体系』の最初の章「A 機能体系または客観的言説」はバルトの『モードの体系』をなぞっていると指摘しておられる。

 衣服を対象とした『モードの体系』に対して『物の体系』のA章は家具やインテリアを対象としており、意識しているのはその通りだろう。ただ『モー ドの体系』が雑誌のキャプション(説明文)に範囲を限定し、後年のバルトからは考えられないくらい地味に衣服とその説明文の構造を分析しているのに対し、 『物の体系』は商品がもつ記号的価値にいきなり切りこんでいる。

 家具やインテリア、家電製品等々の商品はそれぞれ固有の用途をもっており、その用途から使用価値が生まれるが、今日の消費社会では用途以外の付随 的部分の方がより重視される。冷蔵庫の本来の役割は食品を冷蔵保存することだが、冷えるのは当たり前であって、消費者はむしろデザインやちょっとした便利 機能などに注目して購入するかどうかを決める。

 ボードリヤールは伝統的な重々しい家父長的なインテリアと現代のインテリアを対比し、現代のインテリアが商品の自由な組みあわせを基本としてお り、さらに組みあわされる商品がシリーズ化されていると指摘して、記号を組みあわせることによって表現される自己という具合に論旨を進めていく。

 「B 非機能的な体系または主観的言説」は骨董品、マニアックな収集品を俎上に載せ、消費者の満足という視点から記号的価値を基礎づけ、「C メタ機能=非機能の体系——ガジェットとロボット」は一見便利そうだが実は役に立たない商品(ガジェット)を例に機能主義の限界と、記号論的な視点の必要 性を説くが、今となっては余計な寄り道という印象がなくはない。

 「D 物と消費の社会=イデオロギー的体系」ではシリーズ化した商品展開と月賦による消費者訓練、さらに広告という雑多な話題を通じて消費社会による人々の馴化が論じられている。

 どの章もそれぞれ説得力があるが、「結論 《消費》の定義に向かって」における鮮やかな記号論的消費論に達するにはまだ数段階必要な気がする。その意味で言葉足らずなのだ。

 第二作の『消費社会の神話と構造』(こちらの方が早く翻訳された)は『物の体系』で性急に語られた結論を改めて基礎づけようとしている。

 冒頭では商品がぎっしりならんだショッピングセンターの目もくらむような豊かさが描写されるが、そこからメラネシアのカーゴ・カルトの話に飛ぶ。 カーゴ・カルトとは太平洋戦争時にアメリカ軍が空中投下した物資のおこぼれにあずかった原住民が、また空から贈物が降ってくるように、まがい物の飛行機を 作ったりして祈った呪物信仰をいうが、ショッピングセンターからカーゴ・カルトへの飛躍は刺激的ではあるけれども、論理的なつながりは見えにくい。

 とはいえ理論的な見通しははっきりしている。マルクスは生産という視点から資本主義社会を批判したが、消費社会としての側面は十分とらえることができなかった。

 消費社会としての資本主義を批判したのはマルクスよりやや遅れて登場したヴェブレンの『有閑階級の理論』であり、第二次大戦後にヴェブレンを再発見した現代の経済学者(『ゆたかな社会』のガルブレイスなど)である。

 ボードリヤールはヴェブレンとガルブレイスの消費社会批判に記号論的視点を導入し、システムとしての消費社会の構造を解明しようとする。

 現在ではグッチのような特権階級御用達の高級品も代金さえ払えば誰でも購入できる大衆商品であり、単なる記号となってしまっている。そうした記号 を組みあわせることにより個性を作りだし、差別化を図るわけだが、個性的であろうとすればするほど記号のシステムにからめとられていき、社会秩序の中に埋 没していくのである。ボードリヤールは「モノによる救霊」という皮肉な書き方をしている。

 もっともボードリヤールは現代人が主体性を失っているといったガルブレイスの疎外論的な現代社会批判には距離を置いている。ガルブレイスは個人の 主体性という視点から欲求を考えているが、記号論的に考えれば単独の欲求などというものはなく、個人の欲求と見えるものも欲求のシステムの一部をなしてい るからだ。

……

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Posted by 加藤弘一 at 2013年05月29日 23:00 | Category : 文化論




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