2013年6月3日月曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年05月31日

『根津権現裏』藤澤清造(新潮社)

根津権現裏 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「読んでも大丈夫」

 いよいよこの作品をとりあげる時がきた。NEZU-GONGEN-URAというタイトルの響きからしていかにも物々しいこの長編小説は、かの西村 賢太が一方的に脳中で師事してきた大正期の作家・藤澤清造の代表作である。藤澤は1889年(明治22年)生まれで、1932年没。広く世に知られている とは到底言い難い、遠い昔の作家だ。

 1965年生まれの西村はむろん本人とは面識はないのだが、常人離れしたこだわりをこの作家に対して示してきた。全集の刊行を目指して準備を進め ながら、資料等の収集はもちろん、作家の弔いにも余念がない。金銭的な困窮にもかかわらず、東京から相当行きにくいその故郷・石川県七尾を毎月欠かさず訪 れてはきちんと法要を続け、ついには自らの部屋にその墓標を持ってきたり、自身の墓を藤澤の墓の隣にしつらえるほど。西村賢太のそんな「藤澤愛」を作中に 読んで私たちは唖然としつつも、また、興奮するのである。

 しかし、おそらく西村賢太愛好家の多くは、文庫化が果たされた今も藤澤作品のページをひもとくことにはいささかの躊躇をおぼえるだろう。西村作品 の中であれほど神格化されてきた作家の作品を実際に手に取れば、作家の手によって精妙に築きあげられてきた藤澤伝説が瓦解するかもしれない。そうしたら西 村賢太の「清造物」の読み心地にもいささかの変化が生じないとも限らない。それは困る。

 筆者も文庫版『根津権現裏』を、積み上げた本の一角にちらちらと確認しながら、なかなか思い切れないでいた。いざ手に取ってみても、表紙裏に掲載された藤澤清造の写真が、下手をするとJリーグの下っ端選手のようにも見える、やけに今風の表情なのが何だか心配なのである。

 ところが、いよいよ読み始めてみるとどうだろう。さわやかな安心の風が吹き抜けるというわけにはいかないものの、それまでの心配など遠く忘れさせ てくれるような、実に濃厚な「あやしさ」に充ち満ちた作品世界なのである。これはいったい何だ? いったい何が始まるのだ?と戦慄さえ覚える。とりわけ冒 頭部のインパクトは相当なものである。

 午前中のことは一切知らないが、私が起きてからも其の日は、まるで底翳(そこ ひ)の目でも見るように、どんよりと曇っていて、其の陰気さと云ったらないのだ。それに、一夜の中に秋が押しよせてでもきたように、四辺の風物が皆うすら 寂しく白けて見えるのだ。私が寝巻にしている、洗いざらしの白地の浴衣を一枚つけていると、不意に剃刀でも突きつけられたような冷たさが、全身へしみてく るのだ。殊に襟元などは、厭にぞくぞくとしてきて、何となく味気ない思いさえしてくるのだ。(5)

 私小説作家の「のだ」に独特の魔力が宿ることは、以前この欄で上林暁の作品をとりあげた際にも触れたが、この冒頭部などまさにそうで、なぜこれほ どまでに「のだ」を続けなければならないのかよくわからないだけに、とにかく圧倒された気分になる。たとえば同じ時期の萩原朔太郎の詩作品などで、語り手 が一気呵成に語りをつむぐときの、あの興奮と、詠嘆と、いくらかの諧謔の混じった口調を思い出したりもする。

 語りのこうした神経的な震えは終始この作品についてまわる特徴である。この小説では、そもそも巨大な情緒不安定を抱えた語り手がいて、その不安定 な情緒をさらにえぐるようにして、事件が発生するのである。岡田や岡田の兄といった中心的な人物たちはいずれも、いかにも粘着質で一筋縄ではいかない者と して登場する。出来事もいかにも不幸と邪悪さを隠し持った、底知れぬ闇をたたえている。まさに悪夢のような小説世界。

 しかし、ふと立ち止まって考えると、悪夢は主人公の被害妄想的切迫感に発するものにすぎないのかもしれないのだ。だが、そこから逃れる術はない。 小説世界に独特の存在感を与えているのはこの逃れる術のない、行き所のないような、どん詰まりの感覚なのである――とくにラストは圧巻。ただ、そんなどん 詰まりから、先の「のだ」の連鎖にもあらわえていたような「歌」めいたものが響いてもくる。それは「語ることによって生きる」という方法を知る者にのみ許 された「歌」かもしれない。だから、ついそこに耳をそばだてたくなる。

 この小説で中心となる「事件」の骨子は至極単純である。脚を病み、生活にも困窮した語り手は鬱々とした日を送っている。そこへ同郷の友人・岡田の 死の報が届く。どうやら自殺らしい。原因はいったい何か? ちょっとしたミステリー仕立てとも見える筋立てだ。主人公の反応も何だかおかしい。やがてこの 死をめぐって、少しずつ過去の秘密があばかれはじめる。岡田の死にはいつの間にか殺人事件めいた異臭が漂い、主人公もその渦中に巻き込まれる。

 自殺した岡田の通称は「はな」。生来の蓄膿症に苦しみ、それゆえ精神の安定さえもが揺らいでいたという。岡田は売春婦との付き合いに悩んだり、蓄 膿に苦しんだり、またある密告事件を起こしたりして、そのたびに主人公のところにやってきて――ときには寝床にもぐりこんできたりしながら!――あれこれ と議論をふっかけるのだった。これが実にだらだらとした堂々巡りのようなやり取りなのだが、二人の間には信じられないほど鋭敏な情緒の共鳴のようなものが 発生していて、議論としては前に進まないながら、これでもかとばかりに「どん詰まり」の深みを見せてくれる。

 それにしてもこの小説世界の人物たちはよくしゃべる。よく言い争う。語り手は不必要によけいな細部をつけくわえたり、いちいち相手の話の隠れた部 分をも詮索したりする。とりわけ岡田の首つりの状況への興味は、どこか常軌を逸したもののようでもあるのだが、そうした想像が主人公がかつて目撃したとい う心臓麻痺死の光景へとつながってくるところに彼の持ち味がある。

 私は曾て、病臥後幾許(いくばく)も経ない一人の患者が、突然心臓麻痺の為に果 敢なくなって行ったのを目撃したことがある、其の時の苦悶さは真に見るに忍びないものがあった。それは、誇張に誇張を重ねたものだと云われている、あの歌 舞伎狂言に現われてくる人物が、不意に殺害されて落入る時の動作其のままだった。即ち、目は凝と一つところを見詰め、口は堅く食いしばられるとともに、双 手は虚空を摑みながら悶えるのだ。云ってみればそれは、此の世に於ける苦痛を一身に集めたような苦痛さだった。あるいはそれを、苦痛其のもののようだった と云って好いかもしれない。(153-54)

 こうした部分、語り手が何だか生き生きとしている。そうなのだ。『根津権現裏』は苦痛語りに淫しているとさえ言えるような、まさに苦痛を芯にして 展開する小説なのである。岡田の蓄膿症や「私」の脚の病の慢性的な症状は、そうした苦痛の発端に過ぎない。究極的には語り手は、縊死した岡田がいかに苦し んだかを執拗なまでに再現しようとする。それは決して華々しい劇的な形では語られえないのだが、間接体や、想起や、執拗な内省を通し、生々しい痛みとして 提示される。

 何より印象的なのは、そうした苦痛がそのあまりの苦しさゆえに当人に死ぬことさえ許さない、などという想像がなされることである。

 だから、私は今これを岡田に就いて考える場合には、彼も屹度死の苦痛を嘗めて いったことだろうと思う。それどころか、私の知っている限りでは、彼は死ぬにも死ねない幾多の苦悶を持っていたのだ。それがただ一時の発作に駆られて、 誤って彼自身が彼の生活機能に危害を与えたのが因を成して、とうとう亡びて行ってしまったのだ。だから其処には表裏の別は措くとして、泣くにも泣かれない 無限の怨恨、悲哀、憤怒、苦痛の凡てが、十重二十重に渦を巻いていたに相違ない。それを思うと、今更に私には彼の死なるものまでが疑われてきてならなかっ た。よしそれが、――彼の死は事実だとしても、而もそれが、一点苦痛の影をも止めずに行われていたとすれば、飽くまでそれは表面上のことに過ぎない。其の 裏面なる心底には、少なくとも憤怒と怨恨とが、猛火のように燃えさかっていたに相違ない。そうだ。そして、彼は其の猛火の為に、遂に身も心もともに、焼き ほろぼしてしまったのだ。それが私には、哀れにもかなしかった。(154-55)

 苦悶をめぐる語りはこうして熱を帯びてくる。演劇的に示されるのではない。あくまで死後鑑定の立場から、回り道に回り道を経て「其処には表裏の別 は措くとして、泣くにも泣かれない無限の怨恨、悲哀、憤怒、苦痛の凡てが、十重二十重に渦を巻いていたに相違ない」というような語られ方がされるのであ る。思弁と分析と推量の果てに想起される苦悶なのである。それでいて語り手はそんな鑑定を、最後は「哀れにもかなしかった」と情の言葉でまとめてみせる。

 この情緒過多な小説世界のひとつの到達点は、苦痛をこのように情化=浄化することにあるのかもしれない。藤澤清造の語りでは、語るということと感 じるということとがほとんど区別つかないくらいに結びついているのだ。このような筆法はあの磨き抜かれた西村健太の芸風とすぐに重なるものではないかもし れないが、読んでいると、たしかにあちらこちらで西村的世界を思い出させる何かがある。「あっ、この言葉遣いは!」と線を引きたくなる箇所もある。そう簡 単に言葉では説明できないのだが、西村がこの作家に惚れ込んだ理由は何となく感じとれる。ともかく心配はご無用。読後も西村賢太の小説は十分楽しめるし、 ひょっとするとそれ以上のいいことがあるかもしれないのだ。


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