2013年6月5日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年06月04日

『多民族国家シンガポールの政治と言語−「消滅」した南洋大学の25年』田村慶子(明石書店)

多民族国家シンガポールの政治と言語−「消滅」した南洋大学の25年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 シンガポールのことを、「明るい北朝鮮」と言った人がいる。本書を読めば、その意味がわかる。1965年の独立以来、リー・クアンユーの指導の下、人民 行動党が一党独裁を続け、その独裁を批判すれば、国内治安維持法で無期限に収監される。野党も存在するが、選挙区ごとに第1党が議席を総取りするため、野 党議員は当選しにくい。

 本書は、そのような独裁体制下で「権力に祝福されない大学」として、1955年の開学からわずか25年で幕を閉じた南洋大学(南大)の歴史を辿る。著 者、田村慶子は、その歴史をつぎのように要約している。「数では圧倒的に英語派に勝るものの、政治権力から遠かった華語派華人が、英語派との抗争の末に社 会の周縁に追いやられていく過程であり、権力の側から見れば、多民族多言語の社会において民族の言語や文化をどのように政治的に管理するのかという政治と 言語の葛藤の歴史である」。

 シンガポールは、淡路島ほどの面積に400万弱の国民が暮らし、その内訳は華人75%、マレー人14%、インド人9%で、中国語を教授用語とする大学が あっても、なんら不思議ではない。ところが、この「権力に祝福されない大学」は、「多言語、多文化、多民族社会に生きる多様な人びとをどのようにして単一 な国民にするのかという国民統合の考え方が、大学創設者と権力側で大きく異なっていたことと、東西冷戦という時代ゆえ」に、「大学設立構想が発表された一 九五三年当時から、イギリス植民地政府と隣国マラヤ連邦政府、当時はまだイギリス植民地であったシンガポール政治指導者にとって、とてもやっかいなもので あった」。

 そのため、「イギリス植民地政府は構想を断念させるべくさまざまなことを画策し、マラヤ連邦のマレー人政治指導者は声高に反対した。大学は有限会社とし て認可を受けて出発したものの、その学位は承認されなかった。シンガポールがマレーシア連邦の一州となった直後の一九六三年には学生や卒業生が大量逮捕さ れ、大学創設者でもあった理事長の市民権を剥奪された。シンガポールが独立国家となって三年後の一九六八年にようやく学位は政府によって承認されたもの の、南大は徐々に華語大学から英語大学に再編され、英語大学として一九四九年にイギリスが設立したシンガポール大学と八〇年に合併して、シンガポール国立 大学となった。その直後、校舎や講堂、寄付者の名前が刻まれた石碑など、南大を思い出させるものはほとんど壊されてしまい、跡地には南洋理工学院が設立さ れた。学院は一九九二年に南洋理工大学に昇格し、現在に至っている」。

 いっぽう、ときの「権力者」、リー・クアンユーは、2012年に出版した回顧録のなかで、南大を「創設者と学生の多くは共産党の影響を受け、国民統合を 阻害した大学」とみなし、つぎのように評価した。「南大は最初から失敗を運命づけられていた。歴史の流れに逆らって創設された大学であった。共産中国の影 響力が南大を通して華人に及び、親中国の若者を生み出すことを恐れたため、地域を支配する大国イギリスとアメリカが大学の創設を認めない結果になること を、創設者タン・ラークサイは予測できなかった。タンはさらに東南アジア諸国の国内政治も理解できなかった。親中国のビジネスマンによって創設された大学 は、最初から近隣諸国に疑惑の眼で見られた」「南大は一九七〇年代中葉まで二言語で教育を行うことを拒みつづけた」。

 滑稽なのは、徹底的に弾圧された南大が消滅したと同時に、中華人民共和国との関係が好転しはじめ、密接に交流する必要性から、政府が華語奨励運動を展開 し、南大の復権さえ取りざたされたことである。このような独裁政権を批判することはたやすい。しかし、小国ゆえに、時代を先読みし、生き残りのために、国 民を導く務めが国家指導者にはあった。ましてや、1948-60年は共産主義の脅威から、非常事態が布告されていた。リー・クアンユーは、「断固として物 事を進める政府がなければこの国は混乱する」と述べ、強い決意を示した。劣化した民主主義の下で、決められない政治で混乱する国ぐにからみれば、羨ましい 面があるかもしれないが、本来あるべき姿ではない。

 救いは、政府からの補助金がおりず劣悪な環境の下で学んだだけでなく、度重なる弾圧で大きな心に傷を負った学生が、その後その経験を生かして活躍してい ることだ。つぎのように、「おわりに」で紹介されている。「深い心の傷を追ったがゆえに、卒業生の絆は強い。南大がなければ進学することが出来ずに将来ど うなっていたかわからない学生たちは、貧弱な大学施設で文句もいわずに助け合って勉学に励んだ。第二章で紹介したように、南大の新入生歓迎会は学生サーク ル、学科、学部、全学レベルで何度も行われ、学生どうしの絆を深めた。母校を失ったことがその絆をいっそう強め、一九九二年からは国際同窓会が毎年あるい は隔年で開催され、多くの卒業生が家族とともに参加している。一九六八年まで学位が承認されなかったから、南大を卒業後に欧米の大学に留学して学士号を取 り、さらに大学院に進学する学生も多かった。経済的に余裕のない卒業生も何年か働いて留学資金を貯めて欧米に渡った。一九六〇年から六七年の卒業生三三二 四人のうち一二・六%が海外で修士、博士号を取得している。新設の私立大学としては驚くべき数字である」。

 半世紀以上にわたってシンガポールという国家を率いてきたリー・クアンユーが、2011年に閣僚と人民党の中央執行委員を退いた。人民党の独裁にも陰り がみられるようになってきている。「明るい北朝鮮」から変わる日も近いかもしれない。それは、南大が復権する日を意味する。著者は、つぎのような文章で本 書を終えている。「一九六〇年代に「共産主義者」として逮捕、除籍された多くの学生や市民権を剥奪されたタン・ラークサイの名誉回復、南大に「二流の大 学」の烙印を押して「消滅」に追いやった政府の強引なやり方の是非が問われるに違いない。そのとき初めて南大は復権するのであろう」。

→紀伊國屋ウェブストアで購入

Posted by 早瀬晋三 at 2013年06月04日 10:00 | Category : 歴史



0 件のコメント: