2013年6月5日水曜日

asahi shohyo 書評

サッチャーの遺産 橋本努さんが選ぶ本

[文]橋本努(北海道大教授)  [掲載]2013年06月02日

表紙画像 著者:ハイエク,F.A.、気賀健三、古賀勝次朗  出版社:春秋社 価格:¥ 4,200

■「社会的なるもの」の再興

 4月に死去したサッチャー英国元首相は、1979年から11年以上にわたって異例の長期政権を築いた。その実力から彼女は英国の歴代首相で初めて名前に「イズム(主義)」を献上される。電気、ガス、水道などの民営化をすすめ、金融ビッグバンなどの規制緩和を導いた。
■政府の役割強調
  実は彼女の政策の裏側にあったのが、経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエクの『自由の条件』だ。ある保守党の会合で、サッチャーはこの本を鞄(かばん) から取り出して高く掲げると、「私たちが信じるべきものはこれです」と訴えて机の上に叩(たた)きつけたという逸話も残る。彼女の政治家としての強みは、 ハイエクの一貫したビジョンによるところも多い。70年代、多くの人は資本主義と社会主義の両翼が、混合経済体制下のコンセンサス政治に収斂(しゅうれ ん)するのではないかと考えた。だが、福祉国家の経済的衰退をいかに克服するのか。妥協に長(た)けた実務政治家たちの党綱領案を認めず、政治をふたたび 公共的価値をめぐる闘争へと導いたその功績は大きいだろう。
 同時期のレーガン米元大統領とともに、サッチャーは新自由主義の代表的事例と語られ る。ただハイエクの『自由の条件』を読むと、一般的に語られる新自由主義とは大きな違いがあることが分かる。この本は「政府からの自由」を主張しているよ うにみえるが、読み進めると、政府や社会のなすべき任務が次々と登場する。健康保険、貧困対策、障害者福祉、科学と知識の普及、都市計画、自然景観の保 護、労働組合による賃金交渉や共済組織の重要性、等々。ハイエクは自由放任主義に抗して、政府や社会の活動にしかるべき役割を与えた。何でも自由にすれば いいと発想するのではなく、各種支援策の土壌の下で自生的に成長する社会がハイエクの理想だった。
■相互扶助に期待
  サッチャー自身も誤解を受けた。「社会など存在しない、あるのは男女とその家族だけだ」という発言はあまりにも有名だ。孤立した個人の自己責任を重んじる 主張として受けとめられた。『サッチャー回顧録』で、彼女は嘆いている。「私のいいたかったことは、当時は明解であっても、後に見る影もなく歪(ゆが)め られてしまった」と。サッチャーは、むしろ人々の相互扶助精神に期待していた。批判の矢を向けたのは、国家を最初の避難所とみなす立場に対してであった。 ハイエクのいう「真の個人主義」も同様で、国家よりも「社会的なるもの」を重視する。社会の再興を通じて、豊かな個人が育まれるとみなす新自由主義のこの 含意は、これまでほとんど無視されてきた。
 サッチャリズムに対する批判が噴出した後、18年ぶりに保守党から政権を奪い返した労働党のトニー・ ブレア元首相が提唱したのが、古い福祉国家でもサッチャリズムでもない「第三の道」。ブレーンの社会学者アンソニー・ギデンズが著した『第三の道』(日本 経済新聞社・品切れ)は、コミュニティ重視の姿勢を打ち出した。けれども『第三の道とその批判』を読めば、この理念がいかに新自由主義に負っているかが分 かるだろう。賛否両論の尽きないサッチャリズムだが、批判者たちの代案もまた新自由主義の亜種とみなされる。今日のキャメロン政権や世界の潮流もしかり で、現実的な政策は、もはや新自由主義と無縁ではいられなくなってきた。
    ◇
はしもと・つとむ 北海道大教授(社会思想) 67年生まれ。『自由の社会学』『帝国の条件』『学問の技法』など。

この記事に関する関連書籍

新版 ハイエク全集 第I期 5 自由の条件 I 自由の価値

著者:ハイエク,F.A.、気賀健三、古賀勝次朗/ 出版社:春秋社/ 価格:¥4,200/ 発売時期: 2007年07月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


新版 ハイエク全集 第I期 6 自由の条件 II 自由と法

著者:ハイエク,F.A.、気賀健三、古賀勝次朗/ 出版社:春秋社/ 価格:¥4,200/ 発売時期: 2007年08月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


新版 ハイエク全集 第I期 7 自由の条件 III 福祉国家における自由

著者:ハイエク,F.A.、気賀健三、古賀勝次朗/ 出版社:春秋社/ 価格:¥4,410/ 発売時期: 2007年10月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


第三の道とその批判

著者:アンソニー・ギデンズ、今枝法之、干川剛史/ 出版社:晃洋書房/ 価格:¥2,730/ 発売時期: 2003年11月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


サッチャ-回顧録(上巻)

著者:マ-ガレット・ヒルダ・サッチャ-、石塚雅彦/ 出版社:日本経済新聞出版社/ 価格:¥2,854/ 発売時期: 1993年11月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


サッチャ-回顧録(下巻)

著者:マ-ガレット・ヒルダ・サッチャ-、石塚雅彦/ 出版社:日本経済新聞出版社/ 価格:¥2,854/ 発売時期: 1993年11月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (1


自由の社会学

著者:橋本努/ 出版社:NTT出版/ 価格:¥1,890/ 発売時期: 2010年12月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0


帝国の条件 自由を育む秩序の原理

著者:橋本努/ 出版社:弘文堂/ 価格:¥3,675/ 発売時期: 2007年04月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(1 レビュー(0 書評・記事 (1


学問の技法

著者:橋本努/ 出版社:筑摩書房/ 価格:¥819/ 発売時期: 2013年01月

☆☆☆☆☆ マイ本棚登録(0 レビュー(0 書評・記事 (0

0 件のコメント: