2012年8月3日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年07月31日

『現代語訳 舞姫』 山崎一穎監修、井上靖訳 (ちくま文庫)

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 『舞姫』くらいで現代語訳なんてと思ったが、井上靖が訳した『舞姫』があるというので読んでみた。

 もともとは1982年に学研から出た『カラーグラフィック明治の古典』シリーズの鷗外の巻のために訳されたが、2003年に筑摩書房から出ている高校用の国語教科書『精選 現代文』に再録された。ちくま文庫版は『精選 現代文』の方を底本としたという。

 鷗外の原文と井上靖の現代語訳にくわえて監修者の山崎一穎氏による60ページ近い解説があり、さらに資料篇として星新一『祖父・小金井良精の記』 と小金井喜美子「兄の帰朝」のエリス関連部分の抜粋、前田愛氏の『都市空間のなかの文学』から『舞姫』を論じた「BERLIN 1888」の抜粋が収められている。星新一と小金井喜美子の文章はエリス問題の一次資料として定番だし、「BERLIN 1888」は日本文学の研究に記号学と都市論を導入したことで知られる有名な論文である。

 欲をいえば森於莵と小堀杏奴の抜粋がほしかったし(小金井喜美子はなくてもいい)、『うた日記』から「扣鈕」をもってきてもよかっただろう。

 『舞姫』の原文と現代語訳は一回り大きな活字でゆったりと組まれ、下段に注釈がはいるようになっている。原文49ページに対して現代語訳は58 ページと20%ほど増えている。日本の作家には大きくわけて和文系統の人と漢文系統の人がいる。鷗外はもちろん漢文系統だが、井上靖もそうである。井上靖 の文章も簡潔といわれているが、それでも20%近くも増えてしまうのだ。

 井上靖は『舞姫』をどう料理しているか。豊太郎がエリスと出会う場面を読み較べてみよう。まず現代語訳。

 相手はおしはかれぬほどの深い歎きに遭って、あとさき顧みるひまもなく、ここに立って泣いているのであろうか。私の臆病な心は憐愍の情に打ち負かされて、私は思わず傍そばに寄って、「なぜ泣いておられるのか。この土地に繋累のない外国人の私は、却って力を貸して上げ易いこともあろう」と言いかけたが、われながら自分の大胆さに呆れている気持ちだった。

 台詞がまるっきり井上靖調なのが笑える。同じ箇所の鷗外のテクスト。

 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに係累なき外人よそびとは、かへりて力を貸しやすきこともあらむ。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 「嘆き」を「歎き」、「係累」を「繋累」のように井上訳の方が見慣れない漢字を使っているように思うかもしれないが、本書に収録された「原文」は 高校生向けのテクストなのか、見慣れた漢字に書き直されている。オリジナルに近い「青空文庫」から引用すると以下のようになる。

 彼は料はからぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑いとまなく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えず側そばに倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人よそびとは、却かへりて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。

 井上訳は鷗外の措辞をできるだけ忠実になぞろうとしていることがわかるだろう。訳文もほとんど直訳といっていいくらい原文に近い。鷗外に対する井上の敬愛の念がそれだけ深いということだと思われる。

 予想以上にいい現代語訳だと思ったが、オリジナルに近づこうといているだけに、難解と感じる高校生がいるかもしれない(大学生だって怪しい)。現 代語訳のさらに現代語訳が必要になってしまっては現代語訳の意味がない。このくらいは味読してほしいと思うが、さてどうだろう。

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