柳田国男没後50年、鶴見太郎寄稿 民俗学者の輪郭定めた大正時代
[文]鶴見太郎 [掲載]2012年07月31日
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今年の8月8日は柳田国男が死去して50年になる。ちょうど大正100年となる今夏、柳田にとって、大正時代とはどのように位置付けられるのだろうか。奇(く)しくも柳田の誕生日にあたる本日(7月31日)は、そのことを考えるのに相応(ふさわ)しい。
1919(大正8)年暮れ、貴族院書記官長を辞任することで柳田はひとまず、その官歴を終える。しかし時間的な制約がなくなったこと以外に、在野の人とな ることで彼の学問が変容したかといえば、それは殆(ほとん)どなかったといっていい。さかのぼってみるならば、柳田の民俗学とは、自身のキャリアを抛(な げう)つ程度のことでは微動だにしない力を内に秘めていた。
民俗学そのものに限ってみても、大正とは柳田にとって多くの曲折を経た時期であっ た。当初、列島先住民説の傍証として掲げていた「山人論」が南方熊楠との論争によって後退し、「毛坊主考」「巫女(みこ)考」等の論考に代表される漂泊民 への注目、そして最終的に21(同10)年の沖縄紀行を経て、同地の祖霊観をもって日本人の「固有信仰」と定めるまで、柳田の軌跡は文字通り変動に満ちて いた。
その一方で、柳田が終始、こだわり続けたものがある。それは政治・文学・学問を絶えず一体のものとして捉えようとする姿勢である。例え ば、『山島民譚(みんたん)集(一)』(14〈同3〉年)は、馬を水辺に引き込もうとする河童(かっぱ)の姿に零落した神々の残滓(ざんし)を読み取った 比較民俗学の先駆的業績だが、同書において柳田は、カタカナと漢字による表記によって、極力感情を排した平明な記述を行っている。後に同書が再版されるに あたり、柳田は当時を振り返って、官僚的な文体がまかり通っていた中で、自分はなるべく日常的な気持ちに立って復命書など、役所の文章を書いていたとする 序文を寄せている。
明治の末より柳田が独立した自営農民(中農)の創出を願いつつ地方をまわり、農政に関わる多くの論文を著したことを考えれば、この時、政治と学問は独自の課題を設定する人物の文体と結びつくことによって、互いに分化することなく、緊張を伴いながら均衡を保っていた。
26(同15)年に刊行された『山の人生』になると、この姿勢はより鮮明な形で打ち出される。よく知られているように、西美濃の山奥で貧しさの余り、二人 の子供を鉞(まさかり)で殺さざるを得なかった老人の話にはじまる同書は、随所に織り込まれた民俗のひとつひとつが、そこに生きる人々によって経験されて いることの重みとなって読む者の眼(め)に迫る。ここにあるのは、まさに文学と学問が未分化の状態にあることの力強さである。
自身の経歴と民俗観の両面にわたって、変化に富んだ時期でありながら、大正時代の柳田に或(あ)るしなやかな線を引くことができるのは、彼自身が官僚として、そして文学者として続けてきた営みを変えることがなかった所に求められる。
すでに専門分化がすすんでいた日本の学界に対し、民俗学はそれを横から切り裂くような、清新な魅力を湛(たた)えながら、その基礎を整えていった。今日我々が民俗学者として知る柳田国男の輪郭もまた、この頃に定まったといえる。
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柳田国男(1875〜1962) 日本民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省に入る。10(明治43)年に『遠野物語』を刊行。11年から南方熊楠と 文通を開始。20(大正9)年に東京朝日新聞社客員となり、沖縄など各地を旅行。21〜23年はジュネーブの国際連盟委任統治委員。24〜30(昭和5) 年に朝日新聞紙上に約400本の論説を執筆。35年に民間伝承の会(後の日本民俗学会)を設立。40年に朝日文化賞、51年に文化勲章。
鶴見太郎 早稲田大教授 1965年生まれ。京都大大学院博士課程修了。著書に『柳田国男入門』『民俗学の熱き日々』など。
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