2013年9月28日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年09月20日

『アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み』新田啓子(研究社)

アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み →紀伊國屋ウェブストアで購入

「文学研究の新たな地平へ」

 作家であれ研究者であれ、この人と同じ時代を過ごすことができてよかった、と思える人々がいる。新刊を心待ちにしたり、掲載論文を探したりする対 象は、多い方が楽しい−−すべてをフォローするのは大変であるにしても。そして読むたびに「ああ、いまこの作品(論文)を読めてよかった」と幸せをかみし めるのだ。

 わたしにとって新田啓子氏はそんな同時代(そして同世代の)の批評家・研究家の筆頭にくる人物だ。けれども、新田氏の論文を読むのは、少しだけ勇気がい る。なぜなら、彼女のクールで知的興奮に満ちた文章を読むたびに、自分は彼女のいる場所からはるか遠く離れたところで、ただもがいているだけであることを 思い知らされるからだ。それでも、ただ彼女が立っている批評的見地からはいったどんな風景が見えるのかを知りたくて、新田氏の文章を読んでいる自分がい る。

 昨年刊行された『アメリカ文学のカルトグラフィ−−批評による認知地図の試み』は、そんな新田氏が、従来のアメリカ文学研究とは一線を画す自身の 立ち位置を明示した上で、今後のアメリカ文学研究の進むべき方向を高らかに宣言した著作である。彼女が本書で成し遂げているのは、ほかならぬアメリカとい う国の(そしてこれまでのアメリカ文学研究の)「認知地図」を根本から作り直すことであった。

「国民文学」の創出に対する意識が根強く残るアメリカにおいて、国家という枠組みにおいて算出される個々の文学作品は、「アメリカ」を表象している ことが所与のこととして、アメリカ文学研究では受け止められてきた部分がある。その際に使われていた切り口を思いつくままにあげれば、ジェンダー、人種、 階級、あるいはマジョリティとマイノリティ、帝国主義、境界などがあるだろう。こうした批評的フレームは、いまや前提となっているといってよい。

 だが、果たしてこれでいいのだろうか、と新田氏は問い直す。

これらの既存フレームは、作品を読むうえであまりに粗い。物語を規定する語りの委細や、人物たちの置かれる葛藤、さらには特殊な 倫理構造をことごとく抽象化し、単一の読み方を形成する「抜き型」の役しか果たさないと見えたからだ。むしろ、現代批評で承認されたそうした読みの義務的 角度が、作品解釈に「死角」を作ってしまうことに、無関心でいることは避けたかった。(vi)

もちろん、どのようなフレームを使っても「死角」が生じることは承知の上で、新田氏は「空間認識と結びついた主体化」を探るための作図法を読者に提 示する。すなわちそれは、「家庭、都市、漂流、歓待、南部、私秘性、国際移動、異界、親族、伝染病、動物、商品」からみる、アメリカ文学の再配置に他なら ない。序とコーダを除くと全十二章からなる本書からは、こうした作図法によってでなければ見えないアメリカの姿が立ち現れる。

 本書は、したがって、従来のクロノロジカルな研究区分をも軽々と乗り越える。たとえば「家庭」を主題とした第一章「領域化する家、内密の空間」で は、ドメスティシティ関する先行研究を概観し、家庭小説へと論が展開するのかという期待を読者に抱かせつつ、卓越した「家への感受性」を持つ作家としてヘ ンリー・ジェイムズを紹介する。安全であるはずの家の地図を書き換える本章は、イーディス・ウォートンを経由して、ガートルード・スタインで着地する。各 作品の時代背景を綿密に踏まえた上で、ある作品からは時間が何層にも重なったあとで出現する別の時代の作品に、同じテーマを看破する新田氏の手際は鮮やか だ。

 情動を前景化した第三章「逃走という名の空間領域−−情動変化の生態系」では、リチャード・チェイスからはじまるアメリカン・ロマンス論とドゥ ルーズ=ガタリの上同論を結びつけたあとで読者が目にする作品は、ジャック・ケルアックの『路上』である。情動というものがもたらす「変容」に着目しつ つ、「放浪」と「逃走」を論じる本章の後半は、アメリカ文学の古典であるマーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』へと続く。『路上』から 『ハックルベリー・フィン』への接続は、「逃走」というテーマによって可能であるが、本章の読みどころは、むしろ「情動」の方にある。有名なハックによる 良心の認識の場面を「恥」の表象として読み解く新田氏は、そこに「情動の間主体的な働き」と、「共同体の限界を超えた」ところにあるモラリティを見る。

 『アンクル・トムの小屋』で幕をあける第八章「回帰する場所——憑在者たちの複数空間」では、「幽霊」「亡霊」の回帰の意義をさぐる。新田氏は、 幽霊物語を「模倣」し、それを「本物の幽霊物語」としたストウの反奴隷制小説の中に、あの世からの告発を見て取っている。さらに新田氏はデリダの『マルク スの亡霊たち』を補助線に用いながら、「幽霊の回帰がもたらす倒錯的な時間/世界にのみ」見える倫理をうかびあがらせる。では幽霊が回帰する「場」とはど のような空間なのか。新田氏は次のように論じている。

おそらくこのような「超自然者」を拒まない時空とは、排除され、忘れられたものに意識的であろうとする場のことではなかろうか。 (中略)彼らが回帰し、反復的に「異時性」を運ぶ空間は(「他者の場所」284)、喪失された生の刻印を引き受けて、「歴史認識に回収されない「記憶」を 行き始めようとする混成空間に違いない。(180)

かくして本章は、ストウから、ポール・オースターの『幽霊たち』を経て、トニ・モリスン『ビラヴィド』の亡霊へと紡ぐアメリカン・ゴースト・ストーリーの系譜を紡ぎ出す。

 わたしにとって最も印象深い章は、第六章「親密圏をマッピングすること−−公と私の攻防」である。本章はセクシュアリティを意味的に内包してきた 「親密性」を、公に承認させる方向に進んでいる批評家(ローレン・バーラント、マイケル・ウォーナーら)に一定の評価を与えつつも、公の領域へと私の領域 を拡大させることに警告を発することから始まる。個の問題を個のままに置かせてくれないこと、私の問題を−−「個人的なことは政治的なこと」のスローガン が表すとおり−−つねに政治的問題に還元すること、とはいったいどのような「死角」を生み出すのか。むしろそうした公的承認に回収されない「私秘性」をこ そ、文学は表象できるのではないか。性愛にも還元できない親密性。まったく関係のない者たちの間にのみ許される親密な関係性。そのような関係性をレイモン ド・カーヴァーの短篇「親密さ」に読み取る新田氏は、公に回収されない「あくまで個別的な」親密な関係を描き出す。本章の末尾の一節には、ことに胸を打た れる。

だが、こと親密性という現象に関しては、そのコースに則ると、本来見極めるべき、親密な関係の多様性と特殊生を見失うことになる かもしれな。男と女が親密になれば異性愛、女と女が生をともにすればシスターフッドやレズビアン、男と男が絆を結べばホモソーシャルかホモセクシュアルと いう名に当てはめるような手法は、例えば親密圏をマッピングする際、いかに作用するのだろうか。我々はおそらく、領域化されすぎた地政図やイメージが過剰 化した視点を離れ、「感情の潜在的可能性」を一から読み取る作業の方に、回帰せねばならないだろう。それがいかに「政治」から離れた孤独な作業であったと してもだ。(134)

 この孤独な作業をひきうける覚悟と、新たな認知地図を創り出す新田氏の覚悟は、どこかで共鳴しているように思われる。これまでの「抜き型」を捨て、「一から読み取る作業」をすすめる本書は、アメリカ文学研究の新たな地平を静かに指し示している。


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