2013年9月7日土曜日

asahi shohyo 書評

拉致と決断[著]蓮池薫

[評者]最相葉月(ノンフィクションライター)

[掲載] 2013年09月06日

表紙画像 著者:蓮池薫  出版社:新潮社 価格:¥ 1,365

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■絶望を生き抜いた24年間の軌跡

 『拉致と決断』は、北朝鮮に拉致されていた著者・蓮池薫が、その24年間の暮らしについて初めて綴った手記である。刊行は2012年。帰国から10年目のことだ。
  冒頭、日本に一時帰国の名目で帰ってきた際に、このまま日本に残るか北朝鮮に帰るかで夫婦が言い合いになる場面が描かれる。日本には残りたい。しかし、北 朝鮮には残してきた子どもたちがいる。国に家族を引き裂かれた著者夫婦が、再び国に引き裂かれようとしている。国家による犯罪の残酷さ、無慈悲さが胸に迫 る。多くの拉致被害者がまだ北朝鮮に残されている現在、全編を通じてその思いは深まりこそすれ、薄まることはない。
 発端は1978年の夏。平和 な日本で青春を謳歌(おうか)していた著者は、当時恋人だった妻と共に、突然見知らぬ国に連れ去られる。日本に戻れる可能性はゼロ。家族や友人との「絆」 と未来の「夢」を断たれるという絶望から始まった北朝鮮の暮らしの中で、故郷を懐かしむ感情と帰りたいという感情は別と割り切り、この地で生きるための最 大限の努力をした。
 朝鮮語を学び、情報を得ようとする。子どもに対しても自らの出自を「帰国した在日朝鮮人」と偽り、より高度な教育を受けられ るよう平壌の学校へ送り出す。すさまじい思想教育も生きるための手段と捉え、毎朝、朝鮮労働党の機関紙・労働新聞を読み、党の政治思想である主体思想を学 習する。
 北朝鮮に、民主主義国の国民が享受しているような自由はない。服装や髪の長さから職業選択まであらゆるものが制限され、著者の場合は、招待所と呼ばれる宿舎での生活も国内の移動も監視役付きである。
  それでも、不自由な暮らしにわずかな自由を見いだそうと、身の回りにある材料でゴルフボールや麻雀牌をつくったり、釣りや狩りに精を出したりする。反抗的 な態度を示せば上層部に報告されかねない軟禁生活の中で、本音を心の奥に閉じ込め、生活していくための要領を身につけていく。どんなに不自由でも心の中は 自由と考えることだけが、かろうじて著者を支えていた。
 自分への目をもつ人である。殴られ、袋に入れられて連れてこられた拉致被害者であるという事実を片時も忘れることがなかったからだろうか。どれほど緊張を強いられる生活だったかと想像するだけで胸が痛む。
  それでも一時期、社会主義を理想と思い、すべての国が社会主義国になればいいのにと期待したことがあったと打ち明ける。同じ社会主義国になれば日本に帰れ るかもしれないという「儚(はかな)い潜在願望」とともに、すべての人が平等で豊かに暮らすという社会主義の理想像に魅せられたからである。だが現実の北 朝鮮は理想とはほど遠い国だった。
 唯一救いと思えるのは、北朝鮮の人、全部が全部、「領導者」を無条件に崇拝しているわけではなく、組織に忠実なわけでもないということだ。組織との駆け引きのなかで保身的に暮らす人のほうがはるかに多いことを著者は見抜いている。
  思想チェックの意味で一週間の生活を反省させられる「生活総括」の際、「人に知られていない自分の過ちや、組織に問題視されるような内容をわざわざ持ち出 して自分の首を絞める必要はない」とこっそり本音でアドバイスしてくれた人がいた。招待所で物資の管理や食事の世話をしてくれる管理員の中には、誠実で欲 のないおばあさんもいた。
 それでも、この国で暮らすからには、呑み込まねばならないこともある。矛盾や疑問を感じても、市井の人々のように唯々諾々と従うしかない時もある。なぜなら、「現実のあらを見つければ見つけるほど、生きていくのがつらくなるだけ」だから。
 日本にいては想像もつかないのが、アメリカに対する恐怖心の大きさである。韓国との合同演習が行われるたびに緊張が走り、政府は第二の朝鮮戦争を想定して、全国民武装化、全国土の要塞(ようさい)化を呼びかける。
  核を巡る緊張が走った1993年、著者が娘を連れて裏山に登り、万が一行方がわからなくなった場合に落ち合う場所を書いた手紙を石碑の横に埋めておくこと を約束する場面がある。戦争を知らないノンポリ青年だったはずの著者がすぐそこにある戦争を恐怖をもって実感する瞬間である。逆にいえば、北朝鮮は、アメ リカの恐怖を過剰に打ち出すことによって国民を統制してきたのである。
 日本では断片的にしか報じられていない食糧危機の実態も本書で明らかにな る。ソ連崩壊後、食糧・エネルギーの輸入や経済支援が大幅に減り、また、干ばつや洪水など自然災害の影響によって、とくに1990年代の半ばから食糧事情 が急速に悪化。配給制が滞り、自宅のトイレで豚や食用犬を飼う人が次々と現れる。コッチェビといって物乞いをする子どもたちが町を徘(はいかい)し始め る。お金の価値が跳ね上がり、闇市がはびこる。すべての人が平等であるはずの社会主義国に、貧富や身分、地域の格差が公然と現れたのがこの時期だった。
  私たちは本書から何を受け取るべきだろう。拉致がいかに卑劣な犯罪だったとしても、人はそこで新たな日常を生きなければならないという悲痛な現実ではない か。そして、拉致は国家主権の侵害であるという以前に、人が人らしく生きるという人間の尊厳をないがしろにする重大な不法行為であるということではない か。その状態をいたずらに放置することもまた——。
 今この時も彼の地で暮らす被害者の覚悟と生活、彼らを待つ家族の心痛に配慮し、本書に書けなかったことも多いだろう。むしろ書かれないことによって、そこにどれほど困難な事情があるかが推察される。
  日本政府への憤りは書かれていないが、1カ所だけ、「どうして日本という国が救いに来てくれないのかという思いもあって、(日本への愛国心は)むしろ薄ら いでいたかもしれない」という文章がある。政府が自責の念をもって受け止めるべき言葉である。一日も早く、被害者一人ひとりが自分の人生を取り戻す日がく るよう祈るばかりだ。

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