2013年9月28日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年09月16日

『カント「視霊者の夢」』 カント (講談社学術文庫)/『神秘家列伝〈其ノ壱〉』 水木しげる (角川ソフィア文庫)

カント「視霊者の夢」 →『カント「視霊者の夢」』を購入 神秘家列伝〈其ノ壱〉 →『神秘家列伝〈其ノ壱〉』を購入

 『視霊者の夢』は1766年、カントが42歳の時に出版したスウェーデンボリ論である(英語読みではスウェーデンボルグ)。

 スウェーデンボリはカントより36歳年長のスウェーデンの科学者である。英国に留学して天文学(ハレーの助手をつとめたこともある)と機械工学を 学び、帰国後は王立鉱山局で鉱山開発に辣腕をふるって貴族に列せられ、国会議員にも選ばれた。ところが59歳で引退すると、それまで隠していた霊能力を公 然と披露するようになり、霊界のありさまを克明に描いた神秘的著作を矢継ぎ早に発表した。

 1759年のストックホルムの大火の際には、500km離れた地方都市の夕食会で突然顔面蒼白になって大火の様子を事細かに語りだし、後日その通りだったことが確認されるとヨーロッパ中の話題となった。

 この頃カントは出版社兼書店をいとなむカンターの家に間借りしており、大家でもあるカンターから依頼されて書いたのが『視霊者の夢』である。カン ターはスウェーデンボリ・ブームが終わらないうちに急いで出版しようとしたのだろう、原稿段階で検閲を受けるのが原則なのに、ゲラ刷りになってから提出し たため1万ターレルという巨額の罰金(50万円くらい?)を課されている。

 『純粋理性批判』以前のカントは科学哲学者として知られていたから、カントは大槻教授のように科学的見地からのスウェーデンボリ批判を期待されていたはずである。

 実際に読んでみると、のっけから憂鬱の風が体内で下降すれば屁となり、上昇すれば神聖な霊感になるとか、視霊者は火炙りにするより下剤を飲ませて腸内を浄化すればいいといった調子でスウェーデンボリをからかっており、風刺的文書に分類されるのも納得できる。

 カントは出版社に強要されてしかたなく書いたと言い訳をくりかえしているが、読み終えてみると、はたしてそうかという疑問が起きた。

 本書は第一部「独断編」(ドグマ編もしくは原理編と訳した方がいいのではないか)と第二部「歴史編」にわかれる。スウェーデンボリ批判はもっぱら 第二部で、第一部はなぜ霊視がありうるか(たとえ幻覚であっても)、なぜ霊は半透明で透けて見えるのか、なぜ霊は物体を通り抜けられるかについて大真面目 に考察している。最後は風刺的な書き方で茶化してはいるが、頭から霊視体験を否定していたらここまで長々と検討することはなかったと思うのだ。

 デカルトの心身相関論を踏まえた議論をつづけた後で道徳の根拠の問題に移るのは意外だった。

 思考する存在のなかの道徳的衝動という現象は、霊的存在をたがいに交流させあう真に活動的な力の結果と考えることはできないであろうか? そうなると道徳的感情とは個人の意志が一般意志にまさにその通りと感じられるように拘束されていることであり、非物質的世界に道徳的統一を獲得させる上で必要な自然にしてかつ一般的な相互作用の所産ということになるだろう。

 『実践理性批判』はこのような道徳観を克服するために書かれたと考えるべきなのだろうか。

 驚いたのは巻末におさめられている「シャルロッテ・フォン・クノープロッホ嬢への手紙」である。フォン・クノープロッホ嬢からスウェーデンボリに ついて問い合わせる手紙があって、その返信として書かれたらしいが、カントは受講生だったデンマークの士官からストックホルム大火の霊視事件を聞いたこ と、もっと詳しく知るためにコペンハーゲンに帰った士官に調査を依頼したこと、それだけでは満足できなくてストックホルム在住の旧知の英国商人に現地調査 を依頼したことを伝え、こうつづけている。

 この出来事が信用できないとどうして主張できましょうか? このことを手紙で伝えたわたくしの友人は、すべてのいきさつをストックホルムばかりで なく、二ヶ月にわたりイエーテボリでも調査しました。同市では、彼は有力者たちをたいへんよく知っておりましたし、この事件からわずかしかたっていなかっ ただけに、大多数の証人がまだ存命中でしたので彼はいわば全市民からきめこまかく事情を教えてもらいました。

 カントは件の英国商人にスウェーデンボリ宛の書簡を託していた。商人はスウェーデンボリと面会して書簡を手渡し、必ず返事を出すという約束をとり つけてくれる。カントはさらに「この奇妙な人物に自ら質問できればいいと切望しています」と今にもストックホルムに飛んでいきそうな勢いである(旅行嫌い でなければ本当に会いに行ったかもしれない)。

 結局、スウェーデンボリからの返信はなく、面子をつぶされたカントは『視霊者の夢』でスウェーデンボリをこきおろすが、それでも半分以上信じていたのではないかという気がするのだ。

 スウェーデンボリについては日本でも多数の本が出版されており、なんと全集まで邦訳されている。しかし『視霊者の夢』を読む範囲でなら水木しげる の『神秘家列伝〈其ノ壱〉』で十分である。この本ではスウェーデンボリのほかにチベットの聖者ミラレパ、ヴードゥー教の創始者マカンダル、日本の明恵上人 の四人の神秘家をとりあげているが、時代背景まで含めてコンパクトにまとまっていて便利である。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年09月16日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教



kinokuniya shohyo 書評

2013年09月17日

『自然地理学』 カント (岩波書店)

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 『カント全集』の第16巻で『自然地理学』をおさめる。

 『自然地理学』とはカントがケーニヒスベルク大学の私講師となった翌年の1756年夏学期から事実上の引退をした1798年まで、実に43年間に わたって講義した科目である。1772年の冬学期からは対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の講義を同じ曜日と時間にはじめており、 以後25年間にわたって冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』と二つの講義を交互におこなっていた。

 『自然地理学』は前から読みたいと思っていた。理由は二つある。

 まず『自然地理学』はカントが新時代の教養として自負していた科目であり、同時代的な評価も非常に高かったということ。カントが担当した中ではもっとも学生の集まる授業で、評判を聞きつけたケーニヒスベルクの上流人士も講筵に連なった。

 講義の内容は学生が筆記したノートの写本でも流布し(ノートは20種類以上確認されている)、プロシアの大臣だったフライヘルン・フォン・ツェー ドリッツから『自然地理学』をぜひ出版するようにという書簡をじきじきにもらったこともあった(この書簡が機縁となってカントは『純粋理性批判』を献呈し た)。

 講義録を引退まで出さなかったのは当時の大学教師が学生から受講料を直接徴収していたことが大きい。教授には固定給があったが、受講料も無視できなかった。私講師は受講料だけが収入源だった。

 カント自身は財テクに成功していたので経済的には困らなかったが、70歳をすぎると衰えが著しく、学生に敬遠されるようになっていた。唯一学生を集めることができたのが『人間学』と『自然地理学』の講義だった。

 ここで珍事が起こる。かねて『自然地理学』の出版を申し入れていたフォルマーという出版業者がなかなか応じてくれないカントに業を煮やし、1801年に海賊版を出版してしまったのだ。

 老カントは激怒し「フォルマーのもとで不法に出版されたイマヌエル・カントの自然地理学に関する読者への公告」を発表する一方、弟子のリンクに『自然地理学』の出版をゆだねた。こうして1802年に出たのがリンク版『自然地理学』である(本書はこれを底本にしている)。

 読みたかった第二の理由は生まれ故郷から一歩も出たことのない旅行嫌いのカントが地理学をどんな風に語ったか興味があったことだ。カントの入門書には旅行記や探検記を片っ端から読み、それを切り貼りしたとあるが、本当のところはどうなのだろう。

 本書は三部にわかれる。日本版全集で正味400頁あるが、水曜と土曜の午前中2コマづつ、週4コマの授業だったから、半期で十分こなせる分量だろう。

 序論と第一部は1775年の講義の学生のノートにもとづいており、カント自身の訂正がはいっているという。この年カントは51歳、まさに脂の乗り切った壮年期の講義である。

 ところが第二部と第三部は1759年以前のカントの講義草稿をもとにしていた。カントは30代前半、講義をはじめて間もない時期である。出版時点 から見ると40年以上前の内容なので、編者のリンクは最新知識(1802年時点の最新だが)にあわせて相当手をいれているよし(解説によると、そのほとん どは「改悪」だそうである)。

 さて、序論と第一部はきわめて体系的に整然と組み立てられている。カントは序論の冒頭で『人間学』と『自然地理学』が一体をなす所以を以下のように述べている。

 われわれは官と官という二重の感官をもっているので、われわれはやはり、外官と内官に即して、世界をすべての経験認識の総体として観察することができる。世界は外官の対象として観察すれば自然であるが、内官の対象として観察すればないし人間である。
 自然に関する経験と人間に関する経験とが一体となって世界認識が形成される。人間に関する知識をわれわれに教授するのが人間学であるが、われわれは自然に関する知識自然地理学ないし自然地誌学に負っている。

 ノートがとられた時期はカントが『純粋理性批判』の執筆に苦吟していた沈黙の十年の真ん中の時期にあたるが、『純粋理性批判』を思わせるような一節もある。

 われわれの認識は感官から始まる。感官がわれわれに素材を与え、理性はその素材に適切な形式を与えるだけである。それゆえ、すべての知識の根拠は感官と経験のなかにあるが、その経験はわれわれ自身の経験か他人の経験のどちらかである。

 カントは文字で記された信頼できる記録ならば他人の経験も認識の源泉になると積極的に認めており、「われわれは諸外国や辺境の地についての報告に よって、あたかも自分がそれらの国で生活しているかのように、現代についての認識を拡張する」としている。カントは批判哲学時代にも、こうした実用的な視 点をもちつづけていたわけである。

 序論の後半では「数学的予備概念」として天文学から見た地球の概要が語られる。地球がどのような天体か、太陽系においてどのような位置にあるか。

 天文学が地理学とどんな関係があるのか訝しく思う人があるかもしれないが、まず太陽系全体を映してから地球にフォーカスし、どんどんクローズアップしていく映像を思い浮かべればいい。

 第一部は地球物理学編で、まず水の大循環を描きだす。海が太陽で暖められて水蒸気となって上昇し、上空で冷されて地上に雨となって降り注ぐ。降った雨は川となり、大河に集まって海へともどる。

 次に陸の成り立ちに移る。ここでも水の循環から地形形成が説明されるが、その一方、カント=ラプラスの星雲説の延長だろうか、カントは地球がかつ てドロドロに融けた球体で、冷えて地殻が硬くなりしだいに地下深くまで硬化していったが、地球の芯はまだ溶融しているというビジョンをもっていた。地球は 中心部の熱によってまだ変化の途中にあるというのだ。

 以下の条は現代科学からすると間違っているが、妙に説得力がある。

 地球内部のこの混沌とした状態の内側には、成熟に達した地球の厚い外殻の下に、空気が閉じ込められた多くの洞窟や通路が存在するに違いない。この 空気は、活火山によって出口を求めており、大量の物質もろとも圧倒的な力で噴出するものと思われる。しかも地震は火山ときわめて関係が深いので、この力が 地震を引き起こすものと思われる。

 「空気」といっているのは実際には火山ガスである。カントは大陸移動説もマントル対流も知らなかったので、陸地の形成をすべて火山ガスで説明している。餅を焼くと膨らんでいくのが陸の隆起と造山運動であるが、膨らみすぎた餅がつぶれたのがノアの大洪水だというのだ。

 陸の次は大気圏で、地球規模の待機の循環を解説してからさまざまな気候の成因に進んでいく。間違っているが、よく考えられている。

 第二部は博物学編で、人間、動物、植物、鉱物という順で話が進んでいくが、講義の態をなしている第一部とは違って断片的な印象が強い。カントはメ モ程度の草稿しか作らなかったことが知られており、実際の講義では肉づけがおこなわれただろう。英国人がカントの『自然地理学』を受講し、ロンドンの様子 を生き生きと語るのでカントは英国で生活をしたことがあるのだろうと思っていたが、友人からケーニヒスベルクから出たことはないと聞かされて目を丸くした という逸話が残っている。

 18世紀の博物学であるから珍談・奇談の類が目につく。象が皮膚の下の筋肉を収縮させ、皺で蠅を捕まえるとか、ライオンは女性には危害をくわえな いとか、オランウータンは酒を好み、自分で布団をかけて寝るとか、化石を根拠にすべての石は最初は液体だったとか。この辺りの話題は社交生活でも役だった に違いない。

 人種と肌の色に関するトンデモ理論はともかくとして、モンゴロイドをカルムイク人で総称しているのは興味深い。ケーニヒスベルクにカルムイク人が来たことがあるかどうかはわからないが、近い存在だったのだろう。

 第三部でやっと狭義の自然地理学になる。これもメモの域を出ず、珍談奇談の寄せ集めという印象がある。スマトラ島では炎熱の暑さから突然極寒の寒さに変わるとあるが、そういうことを書いた本があったのだろう。

 ダライラマに関して、モンゴルにいるというような間違いはあるものの(チベットには別の大ラマがいると勘違いしている)、ポタラ宮に住んでいて死 ぬと生まれ変わるとか、かなり正確な内容を記述している。カルムイク人はチベット仏教を奉じているから、その経路で伝わったのだろうか。

 第二部・第三部はともかくとして、第一部はさすがカントの著作だと思った。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年09月17日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教



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2013年09月18日

『永遠平和のために』 カント (光文社古典新訳文庫)

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 カントが還暦を過ぎてから発表した政治哲学と歴史哲学に関する論文を集めた本である。

 60歳は当時としては大変な高齢だが、カントは3年前に『純粋理性批判』を世に問うたばかりで、本格的な活動はこの頃からはじまる。『実践理性批判』は64歳、『判断力批判』は66歳の時の著作である。

 三批判が発表された時期を批判期、三批判の後の時期を後批判期というが、本書収録のうち「啓蒙とは何か」、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」の三編が批判期、「万物の終焉」と「永遠平和のために」が後批判期となる。

 最後の「永遠平和のために」は100頁あるが他は30〜40頁前後ですらすら読める。翻訳は三批判の画期的な新訳を刊行中の中山元氏で、本書は中山氏のカント・シリーズの一冊目にあたる。

「啓蒙とは何か」

 1784年、カント60歳の時の発表された。

 フランス革命の5年前だというのに革命では人の考え方は変えられないと断言し、大衆の暴力性や扇動者が大衆に復讐されることにまで言及していて驚いた。

 革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使われることになるだけなのだ。

 カントはフランス革命が方向を失い、恐怖政治に堕ちても革命派を擁護しつづけたが、この論文に書いた洞察のことをどう考えていたのだろう。

 カントは理性の公的な利用と私的な利用を区別し、啓蒙をうながすのは公的な利用だとしているが、公的・私的の区別が現代の用法と反対である。

 間とは軍隊を例にとり、将校が上官から受けた命令の当否をあからさまに云々するのは理性の私的利用で有害だが、戦争が終わった後で学者として命令の当否を論じ、その結果を世に問うのは公的利用で、その自由を妨げられてはならないとする。

 現代の用法では立場が私人か公かで私的・公的をわけているが、カントは目的が公的か私的かで区別しているようである。

 なお「理性」と訳されているのは、従来「悟性」と訳されてきたVerstandである。中山訳の『純粋理性批判』はVerstandを「知性」と訳して話題になったが、この論文でこそVerstandは「知性」とすべきではなかったか。

「世界市民という視点からみた普遍史の理念」

 これも1784年、カント60歳の時の発表された論文である。

 冒頭で人間や人間の集合である国民は「自分の意志」のつもりで「自然の意図」を実現してしまっているという逆説が語られる。

 これはマンデヴィルの「私悪すなわち公益」論の変形だろう。マンデヴィルの「私悪すなわち公益」論は非難されながらも、アダム・スミスの「見えざる手」論などに継承・発展させられていた。統計の話が出てくるあたりも英国の影響をうかがわせる。

 ところが統計的な発想はすぐに消え、ギリシア以来のヨーロッパ史は「国家体制が規則的に改善される道程」であり、人間の愚行や悪とみえるものの背後にも「自然の意図」が働いているとする。

 人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立 することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである。

 ここからヘーゲルの「理性の狡知」はただの一歩である。なお注ではあるが、宇宙人を論じた箇所があるのは面白い。カントは理性的存在のうちに宇宙人も含めていたのである。

「人類の歴史の憶測的な起源」

 1786年、カント62歳の発表で、この論文は「たんなる楽しみのための<漫遊>」だと断り、エデンの園の話からはじめる。楽園追放は個人にとっては災厄だったが、人類の使命のためには必要だったと説くが、啓蒙主義者だけに原罪論は否定している。

 先祖の原罪のために、子孫であるわれわれに、罪を犯すような傾向がうけつがれたのだと考えてはならない。人間がみずからの意志によって行なったことに、遺伝的なものがともなうことはありえないからだ。人間はみずからの行為には、完全な責を負うのである。

 面白いのは国家が個人に自由をあたえ、人間性を尊重するのは戦争の脅威のためだとしていることだ。カントは中国は地理的に外敵を恐れる必要がないので、個人の自由は跡形もなく抹殺されていると書いている。

「万物の終焉」

 1794年、カント70歳の時に発表された。前年にはフランスでルイ16世が処刑され、革命派は内訌をくりかえし、すこしでも立場の違う者を断頭 台送りにする恐怖政治が最高潮に達した。この年の7月ついにテルミドールの反動が起こり、ロベスピエール派が逆にギロチンにかけられた。

 一方カントの住むプロシアではフランス革命の混乱と歩調を合わせるように政治的・宗教的な締めつけが強化されていった。この論文はこうした騒然とした世情を背景に書かれたのである。

 カントがこの論文で試みているのは黙示録の啓蒙主義的読み変えである。

 黙示録では世界最後の日に隕石が落ちてきたり、怪獣が暴れまわったり、天使の軍団と悪魔の軍団が最終戦争をくりひろげたりとパニック映画さながら のスペクタクルが描かれるが、カントはそうした描写は超感性的で、理論的にしか接近できないな道徳の秩序をわかりやすく目に見えるように示したものだと説 く。

 最後の審判の脅しも次のように合理化している。

 イエスみずからが罰を与えると告げていたとしても、この罰という威嚇が、イエスの命令に服従させるための原動力になると解釈してはならない。…… 中略……これは立法者が愛に満ちて、人々の幸福のために示した警告と解釈すべきなのである。法に違反した場合には、悪が発生するのは不可避なことであるか ら、それに注意するように示した警告と解釈すべきなのである。

 聖書と啓蒙主義の折合をつけるのは大変である。御苦労様としかいいようがない。

「永遠平和のために」

 1795年、カント71歳の時に発表された。

 この論文は第一章「国家間に永遠の平和をもたらすための六項目の予備条項」と第二章「国家間における永遠平和のための確定条項」と付録にわかれる。

 第一章で内政干渉の禁止と常備軍の廃棄を提唱しているのは有名だが、財貨の蓄積や軍事国債を危険視しているのは興味深い。戦争は財政的裏づけなしにはできないことをカントはおそらく英国貿易商ジョゼフ・グリーンから教えられたのだろう(『カント先生の散歩』参照)。

 第二章では自然状態は戦争状態であって、永遠平和は特別な努力を必要とするという現実主義的な認識から説きはじめている。

 それはいいとして国家の統治形式には君主制・貴族性・民主制の三つがあり、民主制とは専制政体であり、共和政体とは異なると言いきっている。

 今日の常識と大きくずれるが、カントは共和政体は立法権と行政権が分立しているのに対し、専制政体は二権が分離しておらず、国家がみずから定めた法律を独断で執行できると定義している。

 なぜ民主制が専制政体になるのだろうか? 解説を読んでわかったが、カントはルソーの一般意志論(本書では普遍意志)があるようだ。多数派に従わ ない少数派を一般意志の名のもとに強制することができるというわけだ。おそらく前年に倒れたフランス革命のジャコバン独裁が念頭にあるのだろう。

 国際法は自由な国家の連合に基礎を置くべきという主張は有名だが、国際連盟のようなものにしか行きつかないだろう。現実主義がいつの間にか空想平和主義になってしまった印象があるが、この論文の背景にはフランス革命に裏切られたカントの戸惑いがあるような気がする。

 付録では道徳と政治の矛盾を論じているが、本論よりもさらに理想主義的に名テイルと思った。

 本論とは関係ないが、注でチベットを中国より大きな存在のようにあつかっているのが面白かった。そういう認識が一般的だったのだろうか。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年09月18日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教





kinokuniya shohyo 書評

2013年09月19日

『カント先生の散歩』 池内紀 (潮出版社)

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 カントというと謹厳実直な哲学者を思い浮かべる人が多いだろう。なにしろ難解な本を書いた人である。毎日規則正しく散歩したので時計がわりになったという逸話がいよいよ気難しそうなイメージを強める。

 しかしカントを直接知る同時代人の書簡や回想によると、実際は座をとりもつのがうまい社交好的な人物だったらしい。

 当時の大学の教師には黒ずくめで通したり、身なりに気をつかわない人が多かったようだが、カントは流行に敏感でお洒落だった(本書の表紙はおかしい。もっと派手な服を着せなければ)。通いの召使には白と赤のお仕着せを着せていた。白と赤が好きだったからだ。

 授業も形而上学、論理学、神学、倫理学といった難しそうな科目だけではなく、自然地理学と人間学という「通俗的」な科目も担当していた。この二つはたいそうな人気で、学生以外も聴講にきていた。

 本書は一般向けの本ではあまりふれられてこなかった社交的なカントに焦点をあわせた伝記であり、哲学上の著作にも社交の影響があるとしている。

 著者はまずケーニヒスベルクの繁栄を描きだす。カントは生涯ケーニヒスベルクを出ることはなかったが、田舎町とか、北辺の港町と形容されることが多い。

 しかしケーニヒスベルクは700年つづいた東プロシアの首都であり、19世紀になってベルリンが台頭するまでは北ドイツ文化の中心地だった。出身者には作家のホフマン、哲学者のハーマン、数学者のゴルトバッハやヒルベルトがいるし、オイラーも縁が深かった。

 ケーニヒスベルク城や大聖堂をはじめとする歴史的建造物が林立し「バルト海の真珠」と称されたが、第二次大戦末期、連合軍の空襲と戦闘で街の98%が破壊された。

 街はソ連に編入されてカリーニングラードと名前を変えられた。ドイツ系住民は追いだされ、代りにスラブ系住民が送りこまれた。ドイツ系住民は一部はシベリアの収容所に、残りは東ドイツに強制移住させられた。

 同じように破壊されたドレスデンとワルシャワは民族の宝として国を挙げた復興事業がおこなわれ、戦前とたがわぬ街並が再建されたが、ケーニヒスベ ルクはつまらない田舎町になりさがった。ペレストロイカ後、ドイツからの寄付金と要請で大聖堂が復元されたが、市当局はまったく乗り気ではなかった。カン ト廟は奇跡的に無事だったが、現在のカリーニングラードには往時の繁栄をしのぶものはほとんど残っていない。

 著者によれば、ケーニヒスベルク大学はカントの時代までは新興のベルリン大学をしのぐ北ドイツ一の大学だった。私講師として不安定な生活をつづけていたカントが他の都市の大学からの誘いを拒みつづけたこともそれほど奇異なことではないのかもしれない。

 南ドイツの大学から教授に招聘された際、カントは身体の虚弱と街に多くの友人がいることを断りの理由にした。確かにカントはケーニヒスベルク社交界の人気者で、多くの友人がいた。しかし親友といえるのはジョゼフ・グリーンただ一人だったろう。

 グリーンは穀物、鰊、石炭などを手広くあつかう英国人貿易商だったが、独身で遊びには興味がなく、自宅で「かたい本」を読むのが趣味という変わり者だった。

 カントは40歳の時にグリーンと知りあったが(50歳説もある。中島義道『カントの人間学』参照)、以来劇場通いやカードゲームはふっつりとやめ、毎日のようにグリーン邸を訪れるようになった。

 名うてのイギリス商人から口づたえに、刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情勢にもとづいて「先を読む」コーチを受けていた。ディスカッショ ンという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。グリーンを知ってのちのカントの生活が大きく変わり、グリーン家通いがすべてを押しのけるまでになっ たのには、カントにとって十分な理由があった。

 グリーンの部下で後に後継者となるロバート・マザビーが二人が議論する場に同席したことがある。話題は英国とアメリカ植民地の経済問題で、英国 側・アメリカ側にわかれてディベートしたが、英製品ボイコットや印紙条例、フランスの財政破綻などその後の展開を的確に予測していた。

 二人が語りあったのは世界情勢だけではなかった。カントは社交の場で哲学の話題にふれることを嫌ったが、グリーンにだけは準備中の『純粋理性批判』の内容を語り、すべての部分で意見を聞いた。

 カント哲学は哲学者カントの頭から生まれたと思いがちだが、そこには二つの頭脳がはたらいていた。商都で成功した貿易商の優雅な客間の午後、思索 が大好きな二人が、形而上的言葉をチェスの駒のように配置して知的ゲームに熱中した。十八世紀から十九世紀にかけて、ヨーロッパの富裕層では国を問わずに 見られた現象であって、おおかたの哲学書はそんなふうに誕生した。カントの場合のやや風変わりなのは、知的サロンが独身の中年男二人にかぎられていたこと である。

 著者は『純粋理性批判』の第一稿には「資本」「借用」「担保」等々の経済用語がまじっていたのではないかと想像しているが、裁判用語が残っていることからするとありえない話ではないだろう。

 カントの時間厳守癖はグリーンの影響だったが、グリーンから学んだことがもう一つある。財テクだ。

 カントは貧乏な職人の家に生れ、かつかつの暮らしをしてきた。グリーンはカントのわずかな貯えを有利な条件で運用してやった。グリーンの薫陶よろしくカントは亡くなった時には一財産残すことができた。

 『純粋理性批判』刊行の5年後、グリーンが亡くなった。カントは料理女を雇わず外食で通していたが、店の開いていない日曜日はグリーン邸で食事に呼ばれた。

 親友を失ったカントは同じ哲学部の教授で後輩のクラウスを新たな話し相手にした。クラウスも独身だったが、彼を日曜の食事にまねくために料理女を雇うことにした。日曜の食事会はしだいに参加者が増えていった。

 著者は『実践理性批判』でグリーンの役割を果たしたのはクラウスではないかとしている。クラウスは実際的な道徳説を説いており、『実践理性批判』刊行後に仲たがいしたというから当たっているかもしれない。

 『判断力批判』はどうか。もし対話相手がいたとすれば、東プロシア政庁の高官でケーニヒスベルク言論界の影の仕掛人であり、カントの庇護者でもあったヒッペルではないかというのが著者の見立てだ。ちなみに彼も独身だった。

 ヒッペルは讃美歌やグリーンをモデルにした『時計男』という喜劇を書くなど多芸多才だったが、没後、マゾ趣味やきわどい挿画のはいった好色本のコレクションが暴露された。そういう風流才子が『判断力批判』にかかわっていたというのはなかなか楽しい空想である。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年09月19日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教



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2013年09月20日

『カントの人間学』 中島義道 (講談社現代新書)

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 カントの『自然地理学』と対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の概説本かと思って読んだら、そうではなかった。

 本書の元になった本は『モラリストとしてのカント�』という表題で、『人間学』などを材料に人間研究家モラリストとしてのカントを紹介しているが、なぜそんな人間観になったかという原因をカントの生涯にもとめており、伝記的な側面が大きい。

 「あとがき」には「これまで「よい面」ばかり伝えられて来たのだから、一時的にこれくらいの引き下げ方をしなければ公平ではない」とあるが、実際本書はカントの「悪い面」ばかりをあげつらった観がある。池内紀の『カント先生の散歩』(以下『散歩』)のカントがケーニヒスベルクの上流人士の目に映った白カントだとするなら、本書は意地の悪い同業者から見た黒カントだろう。

 カントには表面的なつきあいの友人は多かったが、真の友といえるのは貿易商のジョゼフ・グリーンくらいだったという点は『散歩』と同じだが、知りあった時期を『散歩』より10年遅い50歳の時としている。

 グリーンとの関係は次のように描かれている。

 カントは彼から徹底的にかの有名な「時間厳守」を学び、自分の資産を彼の会社に高利で預けて殖やし続けていた。グリーンは「その無能力が詩にまで 及び、詩と散文の差異を、前者は無理やりな誇張された音節の配列であるという点においてしか認識できない」程度の男であった。そして、この男にカントは全 幅の信頼を寄せ、「『純粋理性批判』には、あらかじめグリーンに示し、その公平でいかなる体系にもとらわれない理解力による批評を受けずに書いた文章は一 つとしてない」と明言していたのである。

 「高利で預けて殖やし続けていた」とか、グリーンが「その程度の男」という書き方には悪意を感じる。文学がわかるかどうかは人間の価値とは無関係 だし、カントがちまちま貯めた金をグリーンが有利な条件で運用してやったのはあくまで友情からだろう。本書の記述にはいちいち毒がある。

 もっとも『散歩』が公平というわけではないだろう。本書とあわせて読むと、逆の方向に偏った記述だったことがよくわかる。

 たとえばカントが外食に使った店について『散歩』はユンカース通りのツォルニヒやビリヤード台が売物のゲルラッハの名前をあげ、御者や兵士、職人 の集まる大衆的な店だったとしているが、本書ではホテルだったとしている。大衆的な店だとカントは気さくな人という印象になり、ホテルだと成り上がり者と いう印象になるだろう。両方に行っているのかもしれないし、時期によって使う店が変わったのかもしれないが、片方だけだと偏った印象をもつ結果になる。

 『散歩』にはカントが王家に次ぐカイザーリング伯爵家のサロンの30年にわたる常連だったとあるが、本書によるとカイザーリング伯爵家との縁は家庭教師として住みこんだことにはじまる。

 その時カントは28歳だったが伯爵夫人のシャルロッテは24歳で、二人の子供よりも夫人の方が勉強に熱心だった。夫人は晩年にプロシア芸術院会員 に推挙されたほどだったから学ぶ意欲の旺盛な人だったのだろう。本書には夫人がカントに秋波を送り、からかわれたと思ったカントは女嫌いになったのではな いかという推測が書かれているが、本当のところはわからない。

 『散歩』はカントの少年期や勉学時代については「学制のちがいや、教務体制がややこしいし、今とはまるでちがっている」として省略している。カン トの伝記をはじめて読む人はカントは普通の学生生活を送ったので、わざわざ語るほどのことはなかったと受けとるかもしれない。ところがまったく違うのだ。

 カントは貧しい馬具職人の家に生まれたが、抜群に頭がよかったので無料で学べる教会の付属学校にいくことができた。教会の付属学校で学んだ子供は牧師になることが期待されたが(カントの弟は牧師になった)、カントは哲学を志し、分不相応にも大学に進んだ。

 貧乏だった上に父親が病気をしていたから家の援助はまったく期待できなかった。カントは裕福な同級生の家庭教師をしたり、トランプやビリヤードで臨時収入を得たりしてどうにか卒業した(学費が足りずに卒業できなかったという説もある)。

 『人間学』に「流行に従っている阿呆である方が、流行を外れている阿呆であるよりは、とにかくましである」とあるようにカントは服装に気を配った が、苦学時代は着古した一張羅しかなく、仕立屋に直してもらうまで外出できないこともあった。見かねた友人が新調の代金をこっそり出そうとしたが、カント は断固断った。「負債や他人を頼ることの重荷」を嫌ったからである。

 カントは生家の思い出をほとんど語っていないが、次のような挿話を読むと両親は借金に苦しんでいたのではないかと思えてくる。

 この偉人はよくこう言ったものです。「誰か扉をたたく者があると、私はいつも落ちついた楽しい心で、おはいりなさい、と言うことができました。それは、扉の外には絶対に債権者がいないということが確かだったからです」。

 カントは住込みの家庭教師をしながら就職資格論文を完成させて母校の私講師となったが、私講師は固定給なしの不安定な身分だった。カントはなかなか教授になれず私講師をつづけた。

 そういう苦労人だったからだろう、教授になって生活が安定すると貧民救済基金に毎年多額の寄付をおこない、貧しい学生には受講料の一部ないし全部を免除した。カントが他人のために費やした金額は年俸の1/4から1/3におよんだという。

 その一方、何日に払うといって約束の日を守らなかった学生には厳しくあたった。また次のような一面も伝わっている。

 あるとき私たちが散歩の途中で、たちの悪い若い乞食にしつこくせがまれ、まるでお互いに話もできなかったので、私は数ペニヒの金を与えて乞食を追い払おうとしたのだが、カントはその金を私の手からとり上げ、金の代りに杖で乞食に一打ち食わそうとした。

 乞食に杖を振りあげる姿はわれらが哲学者に似つかわしくないが、若いのだから物乞いせずに働けということか。自分に厳しい人は他人にも厳しいのだ。

 本書だけを読んでカントを判断するのはまずいが、二冊目の本として読むといいと思う。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年09月20日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教



kinokuniya shohyo 書評

2013年09月20日

『アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み』新田啓子(研究社)

アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み →紀伊國屋ウェブストアで購入

「文学研究の新たな地平へ」

 作家であれ研究者であれ、この人と同じ時代を過ごすことができてよかった、と思える人々がいる。新刊を心待ちにしたり、掲載論文を探したりする対 象は、多い方が楽しい−−すべてをフォローするのは大変であるにしても。そして読むたびに「ああ、いまこの作品(論文)を読めてよかった」と幸せをかみし めるのだ。

 わたしにとって新田啓子氏はそんな同時代(そして同世代の)の批評家・研究家の筆頭にくる人物だ。けれども、新田氏の論文を読むのは、少しだけ勇気がい る。なぜなら、彼女のクールで知的興奮に満ちた文章を読むたびに、自分は彼女のいる場所からはるか遠く離れたところで、ただもがいているだけであることを 思い知らされるからだ。それでも、ただ彼女が立っている批評的見地からはいったどんな風景が見えるのかを知りたくて、新田氏の文章を読んでいる自分がい る。

 昨年刊行された『アメリカ文学のカルトグラフィ−−批評による認知地図の試み』は、そんな新田氏が、従来のアメリカ文学研究とは一線を画す自身の 立ち位置を明示した上で、今後のアメリカ文学研究の進むべき方向を高らかに宣言した著作である。彼女が本書で成し遂げているのは、ほかならぬアメリカとい う国の(そしてこれまでのアメリカ文学研究の)「認知地図」を根本から作り直すことであった。

「国民文学」の創出に対する意識が根強く残るアメリカにおいて、国家という枠組みにおいて算出される個々の文学作品は、「アメリカ」を表象している ことが所与のこととして、アメリカ文学研究では受け止められてきた部分がある。その際に使われていた切り口を思いつくままにあげれば、ジェンダー、人種、 階級、あるいはマジョリティとマイノリティ、帝国主義、境界などがあるだろう。こうした批評的フレームは、いまや前提となっているといってよい。

 だが、果たしてこれでいいのだろうか、と新田氏は問い直す。

これらの既存フレームは、作品を読むうえであまりに粗い。物語を規定する語りの委細や、人物たちの置かれる葛藤、さらには特殊な 倫理構造をことごとく抽象化し、単一の読み方を形成する「抜き型」の役しか果たさないと見えたからだ。むしろ、現代批評で承認されたそうした読みの義務的 角度が、作品解釈に「死角」を作ってしまうことに、無関心でいることは避けたかった。(vi)

もちろん、どのようなフレームを使っても「死角」が生じることは承知の上で、新田氏は「空間認識と結びついた主体化」を探るための作図法を読者に提 示する。すなわちそれは、「家庭、都市、漂流、歓待、南部、私秘性、国際移動、異界、親族、伝染病、動物、商品」からみる、アメリカ文学の再配置に他なら ない。序とコーダを除くと全十二章からなる本書からは、こうした作図法によってでなければ見えないアメリカの姿が立ち現れる。

 本書は、したがって、従来のクロノロジカルな研究区分をも軽々と乗り越える。たとえば「家庭」を主題とした第一章「領域化する家、内密の空間」で は、ドメスティシティ関する先行研究を概観し、家庭小説へと論が展開するのかという期待を読者に抱かせつつ、卓越した「家への感受性」を持つ作家としてヘ ンリー・ジェイムズを紹介する。安全であるはずの家の地図を書き換える本章は、イーディス・ウォートンを経由して、ガートルード・スタインで着地する。各 作品の時代背景を綿密に踏まえた上で、ある作品からは時間が何層にも重なったあとで出現する別の時代の作品に、同じテーマを看破する新田氏の手際は鮮やか だ。

 情動を前景化した第三章「逃走という名の空間領域−−情動変化の生態系」では、リチャード・チェイスからはじまるアメリカン・ロマンス論とドゥ ルーズ=ガタリの上同論を結びつけたあとで読者が目にする作品は、ジャック・ケルアックの『路上』である。情動というものがもたらす「変容」に着目しつ つ、「放浪」と「逃走」を論じる本章の後半は、アメリカ文学の古典であるマーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』へと続く。『路上』から 『ハックルベリー・フィン』への接続は、「逃走」というテーマによって可能であるが、本章の読みどころは、むしろ「情動」の方にある。有名なハックによる 良心の認識の場面を「恥」の表象として読み解く新田氏は、そこに「情動の間主体的な働き」と、「共同体の限界を超えた」ところにあるモラリティを見る。

 『アンクル・トムの小屋』で幕をあける第八章「回帰する場所——憑在者たちの複数空間」では、「幽霊」「亡霊」の回帰の意義をさぐる。新田氏は、 幽霊物語を「模倣」し、それを「本物の幽霊物語」としたストウの反奴隷制小説の中に、あの世からの告発を見て取っている。さらに新田氏はデリダの『マルク スの亡霊たち』を補助線に用いながら、「幽霊の回帰がもたらす倒錯的な時間/世界にのみ」見える倫理をうかびあがらせる。では幽霊が回帰する「場」とはど のような空間なのか。新田氏は次のように論じている。

おそらくこのような「超自然者」を拒まない時空とは、排除され、忘れられたものに意識的であろうとする場のことではなかろうか。 (中略)彼らが回帰し、反復的に「異時性」を運ぶ空間は(「他者の場所」284)、喪失された生の刻印を引き受けて、「歴史認識に回収されない「記憶」を 行き始めようとする混成空間に違いない。(180)

かくして本章は、ストウから、ポール・オースターの『幽霊たち』を経て、トニ・モリスン『ビラヴィド』の亡霊へと紡ぐアメリカン・ゴースト・ストーリーの系譜を紡ぎ出す。

 わたしにとって最も印象深い章は、第六章「親密圏をマッピングすること−−公と私の攻防」である。本章はセクシュアリティを意味的に内包してきた 「親密性」を、公に承認させる方向に進んでいる批評家(ローレン・バーラント、マイケル・ウォーナーら)に一定の評価を与えつつも、公の領域へと私の領域 を拡大させることに警告を発することから始まる。個の問題を個のままに置かせてくれないこと、私の問題を−−「個人的なことは政治的なこと」のスローガン が表すとおり−−つねに政治的問題に還元すること、とはいったいどのような「死角」を生み出すのか。むしろそうした公的承認に回収されない「私秘性」をこ そ、文学は表象できるのではないか。性愛にも還元できない親密性。まったく関係のない者たちの間にのみ許される親密な関係性。そのような関係性をレイモン ド・カーヴァーの短篇「親密さ」に読み取る新田氏は、公に回収されない「あくまで個別的な」親密な関係を描き出す。本章の末尾の一節には、ことに胸を打た れる。

だが、こと親密性という現象に関しては、そのコースに則ると、本来見極めるべき、親密な関係の多様性と特殊生を見失うことになる かもしれな。男と女が親密になれば異性愛、女と女が生をともにすればシスターフッドやレズビアン、男と男が絆を結べばホモソーシャルかホモセクシュアルと いう名に当てはめるような手法は、例えば親密圏をマッピングする際、いかに作用するのだろうか。我々はおそらく、領域化されすぎた地政図やイメージが過剰 化した視点を離れ、「感情の潜在的可能性」を一から読み取る作業の方に、回帰せねばならないだろう。それがいかに「政治」から離れた孤独な作業であったと してもだ。(134)

 この孤独な作業をひきうける覚悟と、新たな認知地図を創り出す新田氏の覚悟は、どこかで共鳴しているように思われる。これまでの「抜き型」を捨て、「一から読み取る作業」をすすめる本書は、アメリカ文学研究の新たな地平を静かに指し示している。


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kinokuniya shohyo 書評

2013年09月23日

『青鞜の冒険 —女が集まって雑誌をつくるということ—』森まゆみ(平凡社)

青鞜の冒険 —女が集まって雑誌をつくるということ— →紀伊國屋ウェブストアで購入


 「東京本郷区駒込林町九番地」、現在の文京区千駄木五丁目三番地十一で、女性たちの手による雑誌『青鞜』が発刊されたのが明治四十四年。その七十三年後 の昭和五十九年、著者の森まゆみと、山崎範子、仰木ひろみの三人が、地域雑誌『谷根千』をたちあげたのは、その千駄木五丁目から歩いて五分とかからないマ ンションの一室でのことだった。

 『谷根千』で「青鞜」を特集したさい、�「青鞜社」発祥の地�の史跡板のあるその地にあらためて立った著者。「そのとき、女性解放運動家として 数々の役職についた平塚らいてうでなく、二十五歳の若い女性平塚明[はる]の姿が路上にふっと現われたような気がした。『青鞜』発刊は、『谷根千』とおな じく無謀な話であり、それは冒険といってよかった」。

 森まゆみ『小さな雑誌で町づくり—『谷根千』の冒険』(晶文社、1991、のち『『谷根千』の冒険』としてちくま文庫、2002)は、『谷根千』 創生期の記録である。一方、明治末の谷根千界隈で、『青鞜』という雑誌に集った女性たちの冒険のなりゆきを描いた本書は、2009年に94号をもって終刊 とされた『谷根千』における、三人の女性たちの「冒険」へのアンサーブックとしても読むことができる。

 草創期の岩波書店が『青鞜』の版元となる手筈が、「「新しい女」に何となく不安と反感を持っていた」岩波茂雄夫人の一声で取りやめとなった経緯が あるという。そもそも、らいてうは岩波茂雄の申し出を受けつつ、そこで「好意」という言葉が繰り返されることには「引っかかり」を感じていた。

 「このらいてうの感じ方には共感できる気がする」と著者は書く。『谷根千』もまた、男性たちの「好意」からの協力の申し出を幾度となく受け、しかし、そこに「男たちの対等でない意識」を感じてもいた。「らいてうの「好意」への警戒心はもっともなことである」。

 このようにして、「青鞜」のあゆみを追いながら、『谷根千』の彼女たちのこれまでがときおり顧みられる。文学や女性学の分野でくりかえし取りあげ られてきた『青鞜』だが、森まゆみという書き手のフィルターを通して描かれることで、七十年という歳月を超え、この雑誌のありかたが新たな光のもとに照ら し出されている。

 『青鞜』の舞台であった明治の谷根千界隈。同人たちのポートレイト。地域性のあらわれた広告。掲載された作品は丹念に読まれ、紹介される。注目す べきは「後記」。ことに、「青鞜の風雲児」尾竹紅吉の書きっぷりときたらどうか。有名な「五色の酒」や「吉原登楼」のスキャンダルもこれが発端になってい る。こんな内輪のネタで大丈夫なのだろうかとハラハラしつつも面白い。

 なにより、著者の筆による、『青鞜』の中心人物・平塚らいてうのポートレイトがすてきだ。同じ誠之[せいし]小学校、お茶の水女学校(著者の時代 は大学附属中学校)の卒業生。上野動物園や小石川植物園に遊び、白山神社や根津神社のお祭りが楽しみであり、同じ坂道を上り下りした「わが同郷人」につい てが、のちのらいてうの自伝をひもときつつ、描かれる。

 お茶の水のあと進んだ日本女子大でも、授業はそっちのけで哲学や宗教の本を読み、教会に、さらに臨済宗の禅道場に通ったというらいてうは、「わが内なる神を見ることに夢中で、日露戦争は日清戦争ほどにも記憶していない」。
 『青鞜』創刊と同じ年のはじめに起こった大逆事件のさいも、「ひたすら自分の内面を見詰めつづけていたわたくし」の関心といえば、「『青鞜』の産婆役」である生田長江の紹介するニーチェの哲学なのだった。

 「袴を低くは」き、「日和下駄で東京中を歩き回」り、「自分の内面の観照と知識の吸収だけに熱中していた」若きらいてう。女子大のあとは女子英学 塾(現・津田塾大学)と、成美女子英語学校で語学を学び、女性のための文学講習会「閨秀文学会」で当時の文学者の講義を受ける。そこで出会った森田草平 と、かの「雪の塩原事件」にいたるというわけだ。

 あとがきには、「女性解放の先駆者という既存のイメージよりも」、「二十代の霊性にとんだ、理知的で向上心の強いらいてうに立ち戻りたいと思っ た」とある。物静かで、内向的で、社交性に乏しいらいてうは、人の前へ前へとでて、周囲を引っぱっていくというタイプではとてもない。『青鞜』創刊も、生 田長江のすすめによるもので、らいてう自らがのぞんでなされたことではない。しかし、「教会に通い、座禅を組み、内面の完成をめざすらいてう」のスピリッ トは、『青鞜』という雑誌の底にひたひたと漂い、その「冒険」には欠かせない支柱だったろう。

 そんな、不思議なカリスマ性を備えながらも、いわゆるクリエイティブな領域外の、雑誌作りの大半を占める雑多な仕事を苦手とするらいてうは、雑誌 の作り手としては素人であったと著者は断じ、「ああ、雑誌をやっているといろんなことがあるものだ」と、らいてうと『青鞜』を同士のような目で眺めつつ も、その『青鞜』の終末までを冷静に書き切っている。

 やはり歴史は必然なのだろう。彼女たちはまず先に、自らの個を確立することが必要であった。それはときに愛する者や、自分の産んだ子供さえも排斥すべき孤独であった。  孤独を磨いた上で人と連帯する方法を模索した。その連帯はときに裏切られ、実を結ばなかった。その孤独の修業が女たちを育てていった。

 いつの世もそれは変わらない。この、「青鞜」という対象に向けられた、女性としての、雑誌編集者としての、同郷者としての視線の折り重なりから、雑誌作りを通じて自らのしごとを生みだした著者の、人としての「はたらき」の髄を、読者は受け取ることだろう。


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Posted by 近代ナリコ at 2013年09月23日 18:08 | Category : 生きかた/人生





kinokuniya shohyo 書評

2013年09月24日

『忘却のしかた、記憶のしかた−日本・アメリカ・戦争』ジョン・W.ダワー著、外岡秀俊訳(岩波書店)

忘却のしかた、記憶のしかた−日本・アメリカ・戦争 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 「忘却のさせられかた、記憶のさせられかた」とも読めた。本書は、『敗北を抱きしめて』の著者ダワーが、1993年以降に発表したエッセイ・評論に、そ れぞれ自ら書き下ろした解題をつけた論集である。そのときどきに書いたものは、そのときどきの社会的背景や著者自身の環境などがあって、読み返すと何年か 前の自分に反論したくなり、本書のように1冊にまとめることができないことがある。それを可能にしたのは、「訳者あとがき」に書かれているように、「歴史 家としてのダワー氏の姿勢の一貫性である」。だからこそ、過去と現在との対話ができるのである。

 本書の要約が、表紙見返しにある。「冷戦の終焉、戦後五〇年という節目において、またイラクやアフガニスタンでの新しい戦争が進行するなかで、日本とア メリカは、アジア太平洋戦争の記憶をどう呼びおこし、何を忘却してきたのか−」。「ポスターや着物に描かれた戦争宣伝や修辞、ヒロシマ・ナガサキの語られ かた、戦後体制のなかで変容する「平和と民主主義」、E・H・ノーマンの再評価など……。過去をひもとき、いまと対置することで「政治化」された歴史に多 様性を取りもどす、ダワーの研究のエッセンスが凝縮された、最新の論集」。

 本書の特色のひとつは、最初の章に「第一章 E・H・ノーマン、日本、歴史のもちいかた」をもってきたことだろう。著者は、「動乱の一九六〇年代に歴史 家としての道を歩み、その出発点で孤高の歴史家ノーマンと出会った。日本ではひろく名を知られながら、反共マッカーシズムの犠牲になり、英語圏では封印さ れた研究者である」。博士論文を書き終えてまもない著者が編集したノーマン選集への序論(1975年)を抄録したのが、この第一章である。「ノーマンは、 米上院公聴会で「信頼できない人物、たぶんは共産主義者スパイ」だと非難されてのち、一九五七年四月四日に、カイロで自殺した。当時四七歳」。「戦後や占 領後の学界の傾向は、「明治国家の権威主義的な遺産」というノーマンの考えにたいし、根源的な敵意をもっていた」。

 「訳者あとがき」では、著者がノーマンから引き継いだ資質を3つにまとめている。「ひとつは、比較史学という手法である。西欧の古典史を学び、数カ国語 を自在に操ったノーマンは、時代と地域を縦横に往還して参照する特異な手法を発展させた。それは、ある国の歴史を閉ざされた「物語」としてえがこうとする 「一国史観」の対極にあり、欧米など特定の時代や地域を標準とし、そのモデルとの対比で「達成」や「遅れ」を測る発展史観とも対立する」。「ダワー氏は、 軍国化した日本の近代史を、後進性ゆえの「突然変異」として異端視したり、日本よりも「進んだ国」には無縁の歴史として排除したりするのではなく、欧米に も「ありえた歴史」ととらえる」。

 「二つめは、歴史という繊細で複雑な「継ぎ目のない織物」(ノーマン)に対する忠誠である。ノーマンが、ミューズのなかでいちばん内気な歴史の神クリオ に誓いをたてて、その単純化や図式化を拒んだように、ダワー氏もまた史実にのみ忠誠を誓い、他のどのようなイデオロギーにも拝跪(はいき)しない。その結 果、史料に向きあう姿勢はいちじるしくリベラルでしなやかな一方、歴史を稔じ曲げようとする不実にたいしては、仮借ない批判を浴びせる」。

 「三つめは、歴史に大書されることのない無名の人々への愛着である。丸山真男がその追悼文で「無名のものへの愛着」と指摘したように、ノーマンの書く文 章には、国家単位でおきる出来事の記述から漏れ落ちる無数の人々の暮らしにたいする畏敬と愛惜がにじんでいる。『敗北を抱きしめて』でダワー氏がその資質 を遺憾なく発揮したように、浮かんではすぐに消える「蜉蝣(かげろう)」のような雑誌や漫画本、流行歌や替え歌にも歴史家として気を配るのは、そうした移 ろいやすい「史料」の断片にこそ、当時生きた人々の思いや感情が切実に刻印されていると考えているからだろう」。

 著者は、「アジア太平洋戦争における日本の振るまいにかんする、おなじみの右翼側による否定のすべてがふたたびニュースになり、今回は二〇一二年一二月 の安倍晋三首相の登場によって、それが加速化されている」ことを憂えている。それも、日本への愛情をもってのことであることは、「日本の読者へ」のつぎの 文章からわかる。「日本の帝国主義、軍国主義の過去の汚点を消しさろうというキャンペーンは、一九五二年、長びいたアメリカによる日本占領がやっとおわっ た時期にまでさかのぼる。それは六〇年にわたってますます強く推しすすめられ、おわる兆しはない。一九七〇年に始まり二〇一二年におわった教職の期間に、 私が同僚や学生、ジャーナリスト、ふつうの物好きな知人から最もよく受けた質問は、あえていえば、「どうして日本人は、自分たちの近現代を否定せずにはい られないのか」というものだった。それにたいし私はこう答えた。それは「日本人」一般にはあはまらない。日本の戦争責任にかんする主要な研究の多くは日本 人の研究者やジャーナリストによってなされ、書店でもひろく手に入れることができる。平和にたいする日本の戦後の献身は模範的なものだ。日本政府は、とり わけ中国と韓国にあたえた侵略と苦痛をみとめ、謝罪する多くの公式声明を出してきた。−だが、どんなにこうした反論をしても、ほとんど効き目はなかっ た」。本書からも、著者が「戦争と記憶について日本における考えがいかに「多様であるか」について」、「英語圏の読者につたえようとしたのか」、よくわか る。

 著者は、「こうした多様な声が、「愛国的な歴史」の喧伝に専心する有名な日本人の甲高いレトリックや主張、シンボリックな行為(靖国参拝のような)に よって圧倒されてしまうこと」が、国益を損ねていることを、つぎのように述べている。「こうした類(たぐい)の愛国的な偽りの歴史には、ひねくれた矛盾が ある。公に宣言する目標は「国家への愛」をうながすことでありながら、一歩日本の外に出てみれば、そうした内むきのナショナリズムが日本に莫大な損失をお よぼしてきたことは歴然としている。それは、戦争そのものによる害とはちがって、日本の戦後のイメージに、消えない汚点を残すのである。中国人や韓国人の 激昂した反応は大きな注目を集めるが、それは彼らだけにかかわる問題ではない。わたしたちはアメリカでも英国でも、オーストラリアでも欧州でも、日本の信 頼性が侵食されるのを目にしている。国連ですら、批判の合唱に加わった(ここに書くように、国連はふたたび、とりわけ慰安婦問題にかんして、日本に引きつ づき義務をはたすことができていないと非難した)」。「日本が一九五二年に独立を回復して六〇年が過ぎたが、その日本がいまも、近い過去と折りあいをつけ て、隣人や盟友から全信頼をかち得ることができないことは、深く悲しむほかない」。

 「「歴史」が「記憶」としてどのように操作され、社会にひろまるのかという問題であり、さらには、過去から何かを選びとって記憶することが、他のことを 忘れたり、わざと無視したりすることと、いかに分かちがたいのか」、本書から多くのことを学ぶことができ、それが近隣諸国との関係を「悲劇的な物語」にし てしまっていることに気付かされる。しかし、「日本のネオ・ナショナリストの政治家」には、著者の嘆きと憂慮はなかなか伝わらない。伝えることができるの は日本国民だけで、それを各自が自覚することによって、永遠に続くかのように思える「歴史問題」から日本国民は解放されるだろう。

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Posted by 早瀬晋三 at 2013年09月24日 10:00 | Category : 歴史


kinokuniya shohyo 書評

2013年09月25日

『死にたくないんですけど――iPS細胞は死を克服できるのか』八代嘉美・海猫沢めろん(ソフトバンク新書)

死にたくないんですけど――iPS細胞は死を克服できるのか →紀伊國屋ウェブストアで購入

「生と死をめぐるおもしろ対談集」

 まったく科学的な知識のないわたしでも、「再生医療」とか「ES細胞」とか「iPS細胞」とかは聞いたことがあるし、京都大学iPS細胞研究所の 山中伸弥教授がノーベル賞を受賞したことや、iPSのiが小文字なのはiPodのようなキャッチーさを出すためだったらしいとか、その程度は知っている。

 でも、いったいiPS細胞で何がどこまでできるのか、よくわかっていない。なんだかすごそうだ…ということしかわからない。「再生医療」というか らには「再生」をしてくれるのですよね? でもなにを再生してくれるのでしょう。美肌とか?身体や内臓が部分的に欠損したときに、その代わりをつくってく れるのでしょうか? クローン技術とは違うの…ですか?  

 あまりに質問がドシロウトすぎて、たずねることさえはばかられるというもの。とはいえ、やっぱりこの話題になっているiPS細胞とは何なのか、知りたいという気持ちもある。でも誰に聞いたら、何を見たら、このドシロウトにも再生医療が容易に(←重要)理解できるのか…。

 果たして、それはこの本によって(ほぼ)解決された。八代嘉美・海猫沢めろん『死にたくないんですけど−−iPS細胞は死を克服できるのか』(ソ フトバンク新書)。本書は、ユニークな作風と飄々とした雰囲気の作家・海猫沢めろん氏が、再生医療の最先端について、京都iPS細胞研究所准教授の八代嘉 美氏に直撃している対談集である。八代嘉美氏といえば、『再生医療のしくみ』(日本実業出版社)や『iPS細胞−−世紀の発見が医療を変える』(平凡社新 書)などの著書があるが、なんといっても山中教授がノーベル賞を受賞されたとき、さまざまなテレビ番組で、わかりやすい解説をされていたのが印象的だ。

 本書のきっかけとなったのは、マーカス・ウォールセンの『バイオパンク−−DIY科学者たちのDNAハック!』(NHK出版)を読んで衝撃を受け た海猫沢氏が、遺伝子組み替えや現在の医療技術の最先端に興味津々となったことにあるようだ。そこで、海猫沢氏がその興味をぶつける代償として選んだのが 八代氏。なんでも、海猫沢氏と八代氏は、お住まいがご近所だったこともあって、ご飯を食べに行く仲だったとか。

 さて、「死にたくない!」という海猫沢氏の不老不死への野望で幕を開ける本書は、再生医療が延命−−究極的には不老不死をも可能にするのか−−という海猫沢氏の大胆な質問に答えるかたちですすんでいく。

めろん:(前略)さてさてご多忙な八代さんとせっかく対談することができるので、いろいろ質問してみたいと思っているのですが。どこから聞けばいいか…。

八代:なんでも気軽に聞いて下さい。

めろん:じゃあ、まずはドラえもんの話から。名門で知られる麻布中学校の入試に、「ドラえもんは、なぜ生物ではないか」という問いが出題されて注目 を集めました。とても面白い問題だな、と思ったんですが、よくよく考えてみると、奥が深いですよね。ドラえもんが猫型ロボットだということはわかっていま す。でも知性も感情もある。だから実際にドラえもんのような高度なロボットが開発されたら、もうそれは生物ということでいいのではないか、と。(19)

この海猫沢氏の質問を皮切りに、命とはなにか、再生医療というものがどのように発展してきたのか、ES細胞およびiPS細胞にいたる歴史的背景を丹念に(しかもわかりやすく)繙くとともに、現在の再生医療の限界、そして未来の見取り図を示している。

 いわゆる「万能細胞」というような言葉から生まれる誤解についての指摘、ES細胞からiPS細胞への道のり、また混乱して使われることの多い「遺 伝子」「DNA」「染色体」「RNA」「ゲノム」といったキーワードの解説がなされる第一章で、おおまかにiPS細胞の枠組みが提示される。そして、ここ で一気に安心感がつのる−−「あ、わたしにも、(だいたい)わかる」。
 
 海猫沢氏自身が実際に試した「遺伝子検査キット」での検査結果からわかる自らの身体にまつわるデータと向き合いながら、体内にある遺伝子の作用につい て、あれこれ検討する第二章、また再生医療が提起する生命倫理の問題をあつかう第三章がこれに続く。身体(ハード)があっての生命なのか、あるいは自分に まつわる情報(ソフト)だけ保存できれば生き続けられるのか…。海猫沢氏から八代氏つきつけられる生命の問題は、実際には海猫沢氏のとある友人の死に端を 発していることが、本書の中で述べられている。本書を通読して感じるのは、再生医療の話をきけばきくほど、その裏返しとしての死の問題が迫ってくるという ことだった。

 もっとも印象的だったのは、やはり再生医療にその初期から付随していた、生命の発生や、生命の終わりを、人がどのように考え、どのように扱うべき かという問題だ。生命倫理の問題というと、キリスト教の影響のつよい西欧諸国の方が規制が厳しいようなイメージがあるが、実はそうではないと八代氏は述べ る。

めろん:ローマ法王やアメリカのブッシュ前大統領が ES細胞の研究に懸念をしめしていました、という件ですね。日本はキリスト教的な価値観が弱いので、どんどん研究が進められたということはないんですか?

八代:それが、実は逆なんですよ。ES細胞の研究規制については、日本は研究のみを目的とした受精卵の作成は禁止、患者対応ES細胞については条件 が整えば可となっているのに比べて、イギリスはどちらも可能となっています。(中略)日本は宗教的な背景がなく、生命倫理について議論する必要がなかった からiPS細胞を発見することができた、なんて記事をみかけたことがあります。でも、この分析は現場の感覚でも実際の経緯から言っても、明確な間違いで す。(148-49)


八代氏は生命倫理についてのきちんとした議論の場を持つことが必要と提案する。その後話題は、やはり生殖の問題へと移っていく。iPS細胞によって出産年 齢などにどのような影響がありうるのか、出生前診断はどうとらえればよいのか。八代氏はいくつかの場面で印象的な発言を残している。
八代:(前略)いずれにしても、iPS細胞の成功を、「生命の姿」「社会の姿」を問い直すきっかけにするべきでは、と思っていま す。わたしたちの手元には、あるがままの自然、なんてものはとうにありません。人間は生のままでは生きていけない。周囲を変えるか自分を変えるか、いずれ にしても「技術」が介入することで、「死から遠ざかりたい」という本能を満たしてきたわけですから。(165-66)

また出生前診断にまつわる箇所では、八代氏はこう語っている。

八代:(前略)私はそもそも「生まれてこられる」程度の遺伝子のトラブルなのだから、社会全体でそうした人が生きにくくない世界 にしていくべきと思っています。所詮、すべての遺伝子がモデル通り、なんて人は一人もいない。めろんさんの遺伝子検査でも出たとおり、なんだかんだで背景 はさまざまなんです。そうした個性のひとつと考えたらいい。(227)

 そして なんといっても本書で興味深いのは、ご自身も生物学にかんする書物やSF作品を大量に読み込んでおられる海猫沢氏が、八代氏にさまざまな 角度からボールを投げ、八代氏がひとつひとつ打ち返している対話のおもしろさである。上記のような八代氏の発言は、海猫沢氏が投げかけるボールから引き出 されている。海猫沢氏の、ときに挑戦的な、ときに好奇心に満ちた、そしてときにしみじみとした発言が、八代氏の魅力を引き出していると言っていいだろう。 たとえばつぎの海猫沢氏の「人」に対する感覚は、とりわけ忘れがたい。

めろん:ここからが本題なのですが、最近になってやっと友人の自殺に違和感を覚えて理由がわかってきたんです。僕が思うに、人間 の実存ってデータとハードにわかれていて、こうやって八代さんと話しているときは、データとハードが同期している状態なんですよ。わかりやすく言うと、前 回会った際に、iPS細胞研究所に勤めることになったことを聞きました。それから今回の対談まで、その情報が八代さんからいただいた最後のデータだったん ですが、もちろん周りから「八代さんが引っ越しした」とか「もうすでに忙しく働いているらしい」とか、さまざまな情報が入ってくる。そのデータを勝手に更 新して、八代さんというイメージを心の中で構成していたんです。(中略)

 そして、その情報が僕の中では八代さんそのものでした。(中略)それで今日実際お会いして、データとハードを同期させているわけです。(中略)

 でも、僕の友人は死んでしまったので、もう同期させることができません。ハードが突然なくなってしまったわけですから。でも、共通の友だちとかに 会えば、「あいつってこうだったよね」とか(中略)あれこれデータが更新されていってしまうんですね。サポートが終わったソフトウェアを「2ちゃんねる」 の有志が集まって更新し続けるみたいに。(119-21)


 iPS細胞ってどんなものかわかるかな、という軽い気持ちで本書を読み始めたのだが、読了後はこれまでわたしが出会った死について思いをめぐらせていた。啓発的であり、かつ魅力的な対談集である。
 


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kinokuniya shohyo 書評

2013年09月25日

『「若者」とは誰か——アイデンティティの30年』浅野智彦(河出書房新社)

「若者」とは誰か——アイデンティティの30年 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「「若者」を<印象>だけで語らないために」

いつもよく耳にしてきた「最近の若者は・・」という言葉。あまりに素朴なものは「そりゃ年寄りの愚痴ってもんでしょ」などと退けることができても、もう少 し洗練された議論であればどうでしょうか。いわく、携帯電話ばかりいじっているから生身の人間同士のコミュニケーションが不足している、テレビばかり見て いるから人間の生死に関するリアリティがない、だから本当に人を刺してしまう子が現れる、だから若者の自我には未発達なところがある、等々。こうした言い 方には、ある種の胡散臭さがつきまといます。かといって、現実に若い人の行動や考えはよくわからないところがあると思っている人であれば、言われているこ とを100%捨てきれるわけではなく、つい興味をもって聞いてしまったり、あるいは自分自身の「若者」イメージを補強したりするのではないでしょうか。つ まり、特に中高年齢層にとって、「若者」に関するさまざまな語られ方は<信じるに値しないけれども、かといってどう扱ってよいのかわからない(だから時に 都合よく利用してしまう)>という類のものではないかと思います。

そのような語られ方をどう扱えばよいのか、私が思うに、社会学はこの点について有効な二つの思考様式をもっていますが、今回紹介するこの本は、それらの思考様式を上手に組み込んでいます。

ひとつめの社会学的思考様式は、「若者」について語る言葉自体を現象の一部分としてとらえる思考様式です。私たちはしばしば、<事実> としての若者の性質や傾向がまずあって、それを言葉が(正しく、あるいは、間違って)伝える、という構図のもとでとらえがちです。しかし、社会学的思考 は、それらの言葉自体が「若者」という社会現象の一部を構成している、ととらえます。たとえば、「いまの若い人は、自分が何に向いた人間なのか、どんな自 分を目指すのか、もっとしっかり考えなければ」という語り口を例にとってみます。ある程度はもっともなことだと思うのですが、それでは以前の若者は、そん なに「自分が何に向いているのか」「どんな自分になりたいか」といった自己像をしっかり持っていたのでしょうか。そのように考えてよい根拠は思い当たりま せん。すると、「いまの(あるいは、以前の)若者は本当にしっかりと『自分』をもっている(いた)のか否か」を議論するのではなく、むしろ「どのような文 脈でそうした語り口が発生してくるのか」を問うほうが有意義であるように思えてきます。

そのような問い方をするとどのような見え方になるのか、本書の私なりの解釈は、次の通りです。私たちの社会は常に何らかの変化を遂げ動いています が、それに応じて、私たちの生き方や、人間関係の作り方、「自分自身」の持ち方に関する感覚も、微妙に変化していきます。近代以降の社会においては、それ は、一貫した統合的な「自分」(他人から見た場合は、一貫した「その人」)を求めるベクトルと、逆に、その場その場に対応するような柔軟な「自分」(ある いは「その人」)を求めるベクトルとが拮抗し、局所的にどちらかが前面に出たり背後に退いたりします。著者の見立てでは、1990年代以降、若者のコミュ ニケーションや友人関係のあり方は、「この友人になら何でも話す」という類のものではなく、むしろ相手に応じて話題をかえ、同時に話題に応じて友人を使い 分ける(これは、本当にお互いの好きな話題に限定することで、他の話題につきあわせることによる精神的な負担を相手にかけない、という態度につながりま す)、ただし、当該の話題については熱中して会話する、といった特性を以前より目立たせるようになってきています(本書第6章)。これは、先に述べたベク トルのうち後者、すなわち柔軟な「自分」の方に対応しているように見えます。しかし、一方では、そのような傾向に対して反発するような見方も再提示される ようになる。それが「最近の若者はしっかりとした自分というものがない」という嘆きという形をとったり、あるいは「もっと自分をしっかり持たないと就職活 動を乗り切れないぞ」という激励(脅し?)の形をとったりするのではないか、と考えられるのです。

さて、もうひとつの有効な社会学的思考様式は、調査データにとことんこだわる思考様式です。上に挙げた1990年代以降の若者によるコミュニケー ション・友人関係のあり方の変化に関する見立ては、浅野さん自身が関わってきた青少年研究会による質問紙調査(アンケート)の結果をもとにしています。ま た、それ以外にも、内閣府による世界青年意識調査の結果の一部が引用され、それらのデータを十分に検討することで、若者の変化それ自体に迫っていこうとし ています。たとえば、世界青年意識調査の結果では、「充実感を感じるとき」として、「友人や仲間といるとき」を挙げる比率に上昇傾向がみられるのに対し て、「他人にわずらわされず、1人でいるとき」は横ばいに推移してきています(本書139ページ)。また、地域社会への愛着に関する質問に対して「好きで ある」または「まあ好きである」と答える比率は、上昇しています。こうした部分に現れる「若者」たちの姿は、「人間同士のコミュニケーションが不足してい る」といったイメージではとらえられないし、むしろそれとは矛盾しているように見えます。このように、データにこだわることで、「若者」に関する印象論に 巻き込まれず、いわば頭を冷やして現象を眺めることができるのです。

とはいえ、この本が依拠する調査データは、それぞれが貴重とはいえ、決して層の厚い豊富なものとはいえないような気がします。より具体的に踏み込め ば、若者の友人関係のとり結び方や、そこに現れる自己の感覚は、まだまだ謎めいた部分が多いというべきかもしれません。たとえば、本書では、日本の若者が 学校に通うことの意義を「友だちとの友情を育む」ことに求める傾向が強まっているという世界青年意識調査の結果も紹介されています(139ページ)。ここ に注目すると、たとえば大学も、そのような目線で(つまり「友だちとの友情を育む」場として)以前よりも強く意識されている可能性があります。すると、そ のような背景的意識が、具体的にはどのような大学生の友人関係づくりの仕方として現れるのか、そこでの友人関係づくりに先ほど述べた柔軟な「自分」のあり 方は結びつくのか否か、そして、そうした友人関係づくりのあり方はたとえばサークルのとらえ方などにも影響するかもしれない、といった問題設定ができるよ うな気がします。これはほんの一例だと思いますが、要するに、論理的にいえる(あるいは、いえそうな)こととデータとの突き合わせに関して、まだまだやれ ることがあるかもしれない、研究を蓄積すべきかもしれないということです。

もっとも、そうした突き合わせの材料となる調査研究は、必ずしも容易なことではありません。中高年齢層にとっては自らの憶測や印象論から距離をとる のは相当に難しく、逆に若者にとっては、あまりにも日常的な自分たちの社会生活を「研究対象」とすることの難しさがあります。「若者」は、これほど頻繁に 語られるにもかかわらず、研究テーマとしては難しさもはらんでいるのです。そのようにみると、改めて本書で挙げられるデータは貴重だと認識できます。

「若者」について、憶測や印象で語ってしまうのでなく、しっかりと考えてみたい。そのような本格的な社会学的思考をはたらかせたい人に、お薦めしたい一冊です。


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Posted by 伊藤智樹 at 2013年09月25日 14:53 | Category : 社会

asahi shohyo 書評

ネコライオン [著]岩合光昭

[文]大西若人(本社編集委員)  [掲載]2013年09月15日

あくびするネコ 広島県庄原市 拡大画像を見る
あくびするネコ 広島県庄原市

あくびするライオン タンザニア・ンゴロンゴロ自然保護区 拡大画像を見る
あくびするライオン タンザニア・ンゴロンゴロ自然保護区

表紙画像 著者:岩合光昭  出版社:クレヴィス 価格:¥ 1,890

 ネコとライオンが同じネコ科の仲間だってことは、たいていの人が知っている。でもよほど詳しくない限り、どこが似ていて、どこが違っているかを具体的に説明するのは難しい。そんなときは、この写真集を見れば一目瞭然だ。
 科学の実験が典型的だけど、何かと何かを比較し分類する場合、他の要素はそろっている方がいい。猿から人間への進化を示す絵がみんな同じ姿勢なのも、比較しやすいからだろう。この写真集でも、ネコとラインが驚くほど同じ姿勢をとっている。まさに、比較と分類の極意。
 子どもを口にくわえる時も決闘のポーズも、ジャンプの瞬間もあくびの顔も、さらに子どもが顔をそろえるさまも、両者は、よく似た格好で写っている。
 その結果、開けた口の形はほとんど同じだ、とか、体のフォルムはライオンがいかついなあ、などと細部の類似性と相違点に気づくことになる。ちなみに東京都写真美術館では10月20日まで、ほぼ同内容の展覧会が開かれている。
 モデルさんにポーズをとってもらったわけでも、人類の進化図のように恣意(しい)的に描いたわけでもない。相手は、こちらの言うことなんて聞かない動物たち。しかも片方は、そう簡単には撮れないであろうサバンナの王者だ。
 おそらく膨大なアーカイブから似た姿勢のペアを作っていったのだろう。それとも、もともと姿勢で写真を分類していたのか。あるいは撮る時から? 動物写真の名手ならではの仕事といえそうだ。
 さてあなたは、ネコとライオンは似ていると思う派か、似ていないと思う派か。この写真集を見た後は、人間も二つに分類される。
    ◇
 クレヴィス・1890円

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ネコライオン

著者:岩合光昭/ 出版社:クレヴィス/ 価格:¥1,890/ 発売時期: 2013年08月

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