2013年1月10日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年12月30日

『科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘』 ウリー (法政大学出版局)

科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘 →bookwebで購入

 本書はラヴレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングの伝記である。

 彼女はある事情からファーストネームのオーガスタではなく、セカンドネームのエイダと呼ばれた。エイダは生前はバイロン卿の娘として著名だった が、現在では世界最初のプログラマーとして知られている(アメリカ軍が用いているAdaというプログラミング言語は彼女の名にちなむ)。

 ロマン派のスーパースターだったバイロン周辺だけあって、何からなにまで極端で登場人物はみな異様に「濃い」。現代の感覚からすると引いてしまう話が多いが、本書に書いてあることは事実として実証されたことばかりである。

 エイダは生後一ヶ月にして有名人だった。母アナベラが出産早々バイロン邸を出て別居生活をはじめ、それをマスコミがおもしろおかしく伝えたからである。

 当時は男尊女卑の時代だったので夫がどんなに浪費家で放蕩者であっても、妻は耐え忍ぶべきだとされた。アナベラは別居を正当化するためにバイロン の異常性をリークし、娘を夫の悪影響から守るためには邸を出る必要があると主張した。バイロンはバイロンで釈明の詩を新聞に発表し、火に油を注いだ。

 世論はアナベラに味方したのでバイロンはナポレオンの馬車そっくりに作らせた馬車で大陸にわたり、シェリーらとスイスやイタリアで乱れた生活を送ることになるが、8年後、ギリシア独立戦争に参加し、36歳の若さでレパントで病死すると国民的英雄になってしまった。

 バイロンは自伝を書き残したが、出版するかどうかを決める会議の席でアナベラの代理人は原稿を火に投じてしまった。彼女が出版を嫌ったのは結婚初 夜の様子が書かれていたからだといわれている。もっとも初夜についてあることないこと書いた偽作が新聞をにぎわせることになったが。

 アナベラが別居を決意したのはバイロンが実の姉のオーガスタと近親相姦しているという讒言があったからだった。本書の著者は讒言の主はバイロンを ストーカーしていた人妻で、バイロンの気を引くために根元に血のついた陰毛を送りつけてくるような異常性格なので信用できないとしているが、バイロンが オーガスタに姉弟の域を越えるような愛情を持っていたことは各種の証言から間違いない。アナベラにとってオーガスタは何でも相談できる気のおけない義姉 だったが、突然、呪われた名前になってしまった。娘はオーガスタではなく、エイダと呼ばれることになる。

 アナベラはエイダの周辺からバイロンの痕跡を徹底的に排除した。バイロンの詩を読ませないのはもちろん、肖像画も隠した(エイダがはじめて父の肖 像画を見たのは結婚後のことである)。精神科医のアドバイスにしたがい、理性を育て情念を刺激することがないように徹底した数学の英才教育をおこなった。 アナベラ自身、科学に関心のある理系女だったが、その才能を受けついだのか、エイダは理系女として早くから天分をあらわした。

 ところが17歳になり社交界デビューを控えた大事な時期に恋愛事件が起きた。エイダは速記を学ぶために雇った貧しい青年と恋に落ちたのだ。二人は毎夜逢引をかさね、後にエイダが顧問弁護士に語ったところによれば「完全な挿入は避けながら、可能な限りの悦びを味わい尽くした」。逢引が発覚して青年が解雇されると、二人は駆落ち未遂までやらかした。

 すべては首尾よく内密に処理されたが、アナベラは娘が父親の血を引いていることを認めざるをえなくなった。

 社交界デビューと王への謁見は成功したものの、エイダはまたしてもペテン師のような男に熱をあげた。さいわいペテン師はすぐに馬脚をあらわしたので大事にはいたらならなかった。今度はエイダも自分の軽はずみを反省し、母親に「改正案」を書き送っている。

——あらゆる種類の興奮は自分の人生から排除すべし。ただし「知的改良」の興奮は例外なり。キング博士も忠告されたように、科学的思想に専念することによってのみ、想像力と情念が無軌道に走るのを予防しうるが故なり。

——数学の研究に専念すべし。かの善良な博士が診断されし如く、「彼女の最大の欠点は秩序の欠如であり、この欠点を是正するのは数学である」が故に。この学科は感情とは無関係であり、したがって「好ましからざる思念」を掻き立てることは、不可能なるが故に。

 だがエイダにとって数学は「感情とは無関係」ではなかった。彼女はラプラスの大著を翻訳したことで知られる当代随一の女流数学者メアリ・サマヴィルの教えを受けるようになるが、19歳の誕生日を迎えて間もなくサマヴィル家で興奮の発作にみまわれるからだ。

 父バイロンは思索によってかろうじて精神のバランスを保ったが、エイダは詩というはけ口がなかったから別の方法でエネルギーを発散しなければならなかった。

 この時に出会ったのがチャールズ・バベッジと階差機関である。

 バベッジは1791年ロンドンの南に接するサリー州で銀行家の息子として生まれた。子供の頃、母親に連れられてマーリンのからくり博物館で自動人形オートマトンに目を輝かせた。マーリンはバベッジ少年が機械仕掛に興味をもっているのに気づき、屋根裏部屋に案内して二体の踊り子のオートマトンを見せた。銀色の踊り子は彼の記憶に鮮やかに残った。

 長じた彼は生命保険の確率計算に手を染めた後、パリに遊学した。フランスはメートル法を導入したところで、メートル法に対応した対数表が緊急に必要とされていた。対数表を作るにはレティクスの三角表の例でもわかるように厖大な計算が必要で、フランスの計算士を総動員しても無理だった。

 そこに名乗りをあげたのがド・プロニーだった。ド・プロニーは分業で計算するシステムを考案し、一種の数学工場を作りあげた。

 バベッジはド・プロニーの数学工場を知って興奮し、機械化できないかと考えた。「これらの計算が蒸気の力でおこなわれていたならばと、神に願うばかりだ」と彼は手帳に記している。

 バベッジはロンドンに帰ると政府の補助金をえて蒸気で動く階差機関の試作にとりかかった。

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Posted by 加藤弘一 at 2012年12月30日 23:00 | Category : 歴史







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