2011年6月3日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年05月30日

『アルシテクスト序説』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

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 ジュネットのテクスト論三部作の最初の本であり、文学ジャンルを論じている。アルシテクストとはテクストの原型というほどの意味だ。ジュネットは本書において文学テクストの原型にはどうようなものがいくつあるかを探求している。

 文学ジャンルの研究をはじめておこなったのはアリストテレスの『詩学』で、多くの本ではアリストテレスは文学を抒情形式、叙事形式、劇形式の三つにわけ、悲劇を文学最高のジャンルとしたとあるが、ジュネットはそれは誤りだと指摘する。抒情詩は模倣(ミメシス)で はなく自分の感情を吐露するだけなのでアリストテレスは抒情詩を劇形式や叙事詩と並ぶ文学ジャンルとしては認めておらず、失われた後半部分で語られていた はずもないというのだ。同様の錯覚にはノースロップ・フライ、スコールズ、トドロフ、そしてバフチンまで陥っているというのだから穏やかではない。

 ジュネットによれば抒情詩無視はアリストテレスの学統をついだヘレニズム期のアレクサンドリア学派においても踏襲されていた。自身が抒情詩人だったホラティウスの『詩法』(岩波文庫の『詩学』 に併録)もホメロス賛辞と劇詩形式の解説にとどまり、抒情詩についてはふれていない。抒情詩を最初に文学として認めたのは4世紀のディオメデスだった。 ディオメデスはプラトンの三様式説(「詩人だけが語る」「交互に語る」「登場人物だけが語る」)をもとに、以下の三つのジャンルを立てている。

  1. 登場人物だけが語る劇的ジャンル(悲劇、喜劇、諷刺劇)
  2. 詩人だけが語る物語的ジャンル(物語、格言詩、教訓詩)
  3. 詩人と登場人物が交互に語る混合的ジャンル(叙事詩、抒情詩)

 ディオメデスのジャンル論は中世末期において一度復活するが、抒情形式、叙事形式、劇形式という三分法が一般化するのは19世紀のロマン派の時代を待たなければならない。三分法についてはじめて語ったのはアウグスト・シュレーゲルで1801年頃のことだという。

 叙事的、抒情的、劇的——テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ。軽やかな濃密さ、強烈な特異性、調和的な全体性……叙事的なものとは、人間精神における純粋の客観性である。抒情的なものとは、純粋の主観性である。そして劇的なものは、その両者の相互的浸透なのだ。

 ヘーゲルは『美学』でシュレーゲルのジャンルわけを踏襲し、まず「ある民族の素朴な意識」の表現である叙事詩が誕生し、「個人的自我が民族から分 離した時」に抒情詩が生まれるとしている。劇形式の成立はその後で、「叙事詩と抒情詩をとりまとめて客観的展開を含む新たな全体を形成」する。すなわち叙 事詩−抒情詩−劇詩という順である。

 この順番を抒情詩−叙事詩−劇詩という形にあらためたのはシェリングである。シェリングは『芸術の哲学』において主観的な抒情的叫びが時代の進展とともにしだいに客観性を獲得していくという発展説を述べた。

  1. 原初の時代の表現である抒情詩(「人間は生まれたばかりの世界で目覚める」)
  2. 「すべてが停止し固定する」古代の表現である叙事詩(ギリシア悲劇も含む)
  3. キリスト教精神と魂と肉体の断絶を特徴とする時代の表現である劇形式

 この発展説が流布し現在にいたっている。ジョイスの『若い芸術家の肖像』のジャンル論もシェリング説を踏襲している。

 では文学ジャンルはどうわけるべきか。ジュネットはロマン派の歪曲を払拭してアリストテレスの分類から再出発すべきだとする。アリストテレスは様 式が劇的であるか、叙事的であるか、対象がすぐれた人物であるか、劣った人物であるかという二つの基準で分類した。図式化するとこうである。


様式
劇的 物語的

すぐれた人物 悲劇 叙事詩
劣った人物 喜劇 パローディアー(滑稽叙事詩)

 近代における代表的ジャンルとなった小説は劣った人物を叙事的に語る滑稽叙事詩(パローディアー)の後継ジャンルということになる。

 テクスト論を集大成したと評価されるジュネットの三部作の最初の巻だけに構えの大きい堂々としたはじまりである。

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