2010年9月3日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年08月27日

『肴(あて)のある旅─神戸居酒屋巡回記』中村 よお(創元社)

肴(あて)のある旅─神戸居酒屋巡回記 →bookwebで購入

「居酒屋という街の文化を味わい尽くす」

 絶品である。実に味わい深い本だ。そして何とも不思議な読書体験だった。いったい何でこんな本を私が読まなければならないのだろうと何度も訝りながらも、あまりの面白さについつい頁が進んでしまい、気が付いたら読み終わってしまった(旨いお酒みたいに)。
 なぜ不思議なのか。何せ本書は、著者・中村よおが自分の地元の街・神戸でいつも日常的に愛用しているさまざまな個性的な居酒屋の紹介が、八島食堂中店 (元町)、藤原(二宮)、高田屋旭店(王子公園)といった具合に延々と書いてあるだけの本だからだ。本の最後には紹介された店の住所・連絡先の一覧表も掲 載されているのだから、本書が飲酒店のガイドブックの役割を担っていることは間違いない。ところが私はといえば、千葉に住んでいて、神戸に行く機会などほ とんどないのだから、ガイド本としては私にはまるで意味がないのである。だからここに紹介された、料理が旨くて雰囲気が良さそうな居酒屋の数々に私は今後 も行かないだろう。だから読んだって意味ないぞと私の脳は繰り返し私に向かって言うのだが、私の身体は、麻薬の快楽に取りつかれたかのように読みたい欲望 を断ち切ることができなかった。

 では、何がそんなに気持ちよいのか。第一に、店の場所の紹介の仕方がいい。

 阪急電車の王子公園駅東口を南側に降りて、東へ少し歩いたところからさらに東に向かって続く水道筋商店街。駅の方から歩くと六丁目から始まるその商店街の東の端である一丁目にこの店はある。(高田屋旭店一色屋(王子公園))

 居酒屋の場所が、その店へ実際に歩いて行く人の身体感覚から紹介されているだろう。「東へ少し歩いたところ」から「さらに東に向かって続く」とい う表現では、その場所に行ったことのない人間にはよく分からない。しかし、実際にその場所で道案内するときや、同じ地元の人間が会話するときのように、そ の街のイメージを共有している人間の間ではいかにも通じやすそうな表現だろう。こういう表現で居酒屋の場所を説明されると、いま私が飲みに行くときにやっ ている、グーグル・マップで鳥瞰図的な視点から示されたポイントを目指して、紙を片手に見知らぬ道をうろうろしていることが悲しく思えてくる。なんて私は 街の文化を知らない田舎者なんだ、と。
 第二に、中村の飲み方のスタイルもいい。友人たちと飲んだり、仕事の打ち上げで飲みに出かけたりといったふつうの飲み方だけでなく、一人で昼間から「おやつ代わりのちょっと昼酒」(118頁)と、ちょっと後ろめたい飲み方をしていて、それが実に楽しそうなのだ。

 僕も休日や、午前中で仕事が終わった日の遅い昼の時間、この店に来て、いつも大鍋でぐつぐつ旨そうに煮えているおでんで、昼間のことゆえ、よそで はまずたのまない小瓶ビールをやり、しじみ汁と、もう一品、野菜の煮つけとかをもらって「小」よりまだ小さい「極小」のご飯で締めるというように過ごすの を至福の時としていた。(皆様食堂(三宮))

 この引用箇所の後、そのうち段々と大胆になって、昼間でもビールが大瓶になり、いかの塩辛をたのんでご飯をやめるようになって「飯」というよりは ただの「酒」になってしまったという話が続いて、実にユーモラスで可笑しいところだ。ただのアル中だろ、という突っ込みを入れたくなるのだが、「安心し た。居合わせたお客さんの全員が飲んでいた」という後ろめたさの記述がかろうじて封じてくれる。そして代わりに、中村が人生をゆったりと楽しんでいるさま がじんわりと伝わってくる。そこがいい。

 むろん、神戸という街の特殊事情も忘れてはなるまい。神戸には、「正宗屋」とか「金盃」といった酒の銘柄の名前がついた「宣伝酒場」(というのだ と初めてこの本で知った)が多い。蔵元から直に酒を仕入れて、それを安価に提供して、その蔵元の酒を宣伝する飲み屋というわけだ。いまでは蔵元との関係は 切れているにもかかわらず、その名前をそのまま使い続けて「正宗屋新開地店」とか「元町金盃」とか「高田屋旭店」といった、時代遅れの不思議な名前の店と して生き残っているらしい。それもまた今日の趨勢とは正反対に、街の伝統を感じさせて味わい深い。

 要するに、中村よおは本書で、自分の地元の文化をたっぷりと味わうということを実践しているのである。下記の引用を読めば分かるように、彼自身そのことに自覚的であるように思う。だから本書は、ただのローカルなガイドブックであることを超えた、普遍的な魅力があるのだ。
 
 本来『文化』というのは、かしこまって対峙するものではなく、金盃ですごすひとときのように、毎日の生活のなかで自然に触れていくべきものという気がする(137頁)。

 中村は70年代にフォークシンガーとしての活動を始め、関西で地道にライブ活動を行ってきた歌手にしてDJにして音楽評論家である。私は前回紹介 した『「プガジャ」の時代』(ブレーンセンター)の中で紹介されていた彼の旧著『バー70'sで乾杯』(ビレッジブックス)をネット古本屋で購入して読ん でいたく感心し(関西のライブハウスやロック喫茶などを楽しそうに紹介している)、その勢いで本書を買ってしまった。手作り感覚で自前の文化を作り出し、 それを享受するという関西文化の神髄が中村の著書には脈打っている。もっと生きることの快楽に対して貪欲であっていいんじゃないか。それが文化ではないの か。そう私は叱られているようにさえ感じた。

(追記)
関西のすごい書き手を発見したと喜んでこの文章を書いたが、ブログにアップする前にちょっと不安になったので、念のため坪内祐三の大阪もの2冊を調べてみ たら、ちゃんと「中村よおさんの新しいエッセイ集は、予想通り素晴らしい」という本書への賛辞(『大阪おもい』、ぴあ)があった。とても悔しい。




→bookwebで購入

0 件のコメント: