2010年08月23日
『ミドルワールド—— 動き続ける物質と生命の起原』マーク・ホウ著/三井恵津子訳(紀伊國屋書店)
「ライスプディングにジャムを混ぜちゃうと、元にもどせない理由」
竹内 薫(サイエンスライター)まず、読後感から言わせてもらうと、「ミドルワールドにかかわった科学者たちの悲喜こもごも」がものすごく面白かった。
「この本は、ヒトの髪の毛の太さの一〇〇分の一から一〇分の一の大きさをもったものが住む世界の物語である。『ミドルワールド』と私が呼ぶ世界」(p.24)
ミドルワールドは、大きな石ころや人間や地球といった世界と、小さな原子や素粒子の世界との「中間世界」のことだ(科学者たちは、ミドルワールドではなく、「メゾスコピック系」という難しい言い方をするらしい)。
少々、狐につままれたような気分のまま読んでゆくと、ロバート・ブラウンという植物学者の伝記になる。やがて、ライスプディングにジャムを混ぜる実験の話が出てくる。うん? なんだ、コレ?
たしかに、ライスプディングとジャムを混ぜたら、元にはもどせないよな…。さらに読み進めると、やがてニュートンが登場し、熱力学をつくった人々がにぎやかに紹介され、次第に科学者列伝めいてくる。うん、おもしろいぞ、こいつら。
読者によって、この本は変幻自在に姿を変える。物理学出身のボクにとっては、
「気体は、可逆的な力学の法則に従う粒子の集まりであるにもかかわらず、非常に多数の粒子が集まっているので、その振る舞いは統計学的には不可逆になる」(p.120)
というような説明は非常にわかりやすく、かつ面白く、また、さまざまな物理学者の悲喜劇にも心躍らされる。
学生時代、物理学科の先生が、授業中に、ボルツマンのお墓を訪ねて旅した話をしていたが、ボクは試験で赤点を取ったせいか、あまりいい思い出がな い。本書に出てくるボルツマンも、終始むっつりとしたイメージで、自己表現力に乏しく、最後は妻と子を残して自殺してしまう。しかし、ボルツマンのまとも な伝記を読んだことがなかったボクは、この偉大な物理学者が、ニュートン力学とライスプディングの実験の矛盾を解決したのだ、という本書の説明を聞いて、 なんだか目から鱗が落ちた気がした。
ボルツマンだけではない。誰もが知っているアインシュタインの話も興味深い。
「アインシュタインの理論は、もし液体が目に見えない分子の海からできているとすると、それに浸されている大きな目に見える粒子は、ランダムウォークすなわちブラウン運動をするに違いないことを示した」(p.148)
ほとんどの読者が知らないと思うが、アインシュタインは相対性理論ではなく、量子論の業績でノーベル賞を受賞している。そして、さらに知っている 人が少ないのが、アインシュタインの「最大」の業績がブラウン運動に関する論文だったことだろう。実際、アインシュタインの論文の中でもっとも科学論文に 多く引用されているのは、相対性理論でも量子論でもなく、ブラウン運動の論文なのだ。
学校でDNAが二重らせんであることを教わるが、この本を読むまで、ボクはあの教科書に載っている図版が正しいのだとばかり思っていた。ところが、この本には、DNAの真の姿が、
「身もだえし、くねくね動く、分子の�獣�」(p.188)
と書いてあるではないか。たしかに、よくよく考えてみれば、DNAだって水分子の海に浮いているのだから、ミドルワールドの住人として、常に揺れ動いているにちがいない。
こんなに話題豊富なのに、ミドルワールドは、あまりわれわれの生活に関係ないような気がする。しかし、
「二〇〇五年一二月の『サイエンス』(Science)誌のニュース記事によると、全世界におけるミドルワールド研究開発の年間支出は、すでに九〇億ドルに達した」(p.251)
というから驚きだ。実は、ミドルワールドは、いわゆる「ナノテク」の領域にも属するため、世界中で研究開発が行なわれているのだという。
世界で初めてミドルワールドを顕微鏡で観察したロバート・ブラウンは、花粉の粒子が生きているわけではないことを見抜いた。しかし、その後、ミドルワールドには細胞やDNAやウイルスといった生命界の住人もいることが判明した。
「ミドルワールドの科学は、生命を物質の作用に『還元すること』に係わるのではなく、物質の作用を生命へと引き上げることに係わる」(p.272)
つまり、ミドルワールドは、生命と非生命が混ざり合うミステリーゾーンなのだ。
さまざまな逸話に彩られたミドルワールドは、一言でいうなら「いぶし銀の世界」である。そんな目立たない世界の究明に一生をかけた科学者たちの波瀾万丈の人生には驚かされるばかりだ。
科学のエピソードに興味がある人、物理学が好きな人、さらには生物学ファンにもおススメできる、万人向けの科学の良書である。
*「scripta」第15号(2010年3月)より転載
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