2010年9月14日火曜日

asahi shohyo 書評

古書の森 逍遙—明治・大正・昭和の愛しき雑書たち [著]黒岩比佐子

[掲載]2010年9月12日

  • [評者]穂村弘(歌人)

■昔の本から新しい「今」を切り開く

 色々な雑誌の最新号を読む度に面白く思う半面、微妙に不安な気持ちになる。それによって、自分が「今」から遅れている事実を確認させられるからだ。しかも、そんな風に外から一方的に教えられている限り、最新号を読み続けても、永遠に「今」には追いつけないことになる。

 本書は著者が古書展に通い詰めて、主に明治や大正期の雑誌や実用書を買いまくった記録である。数百円で買ったものが多いとのことだが、興味深い記事が数多く紹介されている。

 明治期に無銭絶食旅行が流行(はや)っていたとか、関東大震災後に上野公園の西郷さんの像には行方不明者を求めるビラが無数に貼(は)られたとか、新聞各社では一九六〇年代まで伝書鳩(でんしょばと)を使って写真を運んでいたとか。

 また『家庭辞書』の「接吻(せっぷん)」の心得についての頁(ページ)が、前の所有者の手で折られていたというのも古書ならではの逸話だ。

 前述のように、雑誌の最新号をみると自分の遅れを意識するし、ちょっと古い号をみると逆にこちらの方が進んでいるように感じる。では、明治や大正の記事をみると、圧倒的に自分が進んでいるように思うかというと、必ずしもそうはならないところが不思議だ。

 例えば「近頃欧羅巴(ヨーロッパ)では、手の爪(つめ)に写真を撮影(うつ)すことが発明され、それが米国までも伝はつて昨今非常に流行して居るそうです」って、一体どういう技術なんだろう。昔というよりも未来の出来事のようだ。

 この他にも新旧の単純な比較を絶する記事が多くみられる。もしかすると、私が感じていた「今」とは、現在を中心にせいぜい前後数年単位の幻のようなものだったのかもしれない。

 著者は大昔の雑誌を買いまくり読みまくることを通じて、独自の関心領域(伝書鳩、村井弦斎、お嬢さまなど)を見出(みいだ)している。さらに、それらをテーマにした本を書くことで、世界に新しい「今」を切り開いているのだ。

 読者である私はそのプロセスを味わうことで、本当の「今」とは外からの情報として到来するのではなく、自分自身の裡(うち)に生まれることを教えられた。

    ◇

 くろいわ・ひさこ 58年生まれ。ノンフィクション作家。『「食道楽」の人 村井弦斎』など。

0 件のコメント: